2013年8月 ほんとうに信じられるものがある
御影神愛キリスト教会 会員 土井 啓明
昨年の2012年12月、洗礼を受けて10年が経ちました。洗礼を授けていただいたのは30代最後の年です。それまでは、家族にもクリスチャンは一人もおらず、教会には一度も行ったことがない「完全なるノンクリスチャン(!)」でした。一方で、結婚式は大阪の住吉神社で行ったり、禅寺に早朝座禅を組みに行ったりと、人知を超えた大きな存在に対しての敬う思いは持っていました。
そんな私が教会に行くきっかけは、仕事の「行き詰まり感」があったからでした。そんな時、ふと立ち寄った書店で2冊の本と出会いました。1冊目は『最高の上司になるシンプルな方法』 副題が「イエスのEメール」というPHPから発行されているビジネス書です。最初のページを開くと、マタイ7章3-5節「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 (中略) 偽善者たち、まず、自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」 この節を読んだ瞬間、「正すべきは、まずは自分の心や行いなのだ」と、心に”グサッ!”と突き刺さるものを感じました。この書は、この調子で、自分のことを内省させ、自分の中にあった罪というものに初めて気づかせてくれました。
もう1冊は、『この1冊で聖書がわかる』という三笠書房から出されている気軽に読める教養書です。それに書かれていたのは、「聖書でイエスが伝えようとしていることを一言でいうと、『愛』である。」 「愛」というとそれまでの私は、「異性に対する恋愛」くらいの理解しかありませんでした。イエス・キリストの愛を知るにあたって、その圧倒的な愛の大きさを感じ、「聖書が言っている愛はあまりにも自分にとってハードルが高すぎる。」と自分の愛の不足感に立ちすくんだことを覚えています。
そんな私は、信仰が守られて10年が経ちました。10年前には1%も想像していなかったことです。「まさかの10年です。」このまさかの10年を振り返ってみると、最初の頃は、信仰を持ったのだから、仕事も生活も全て神様が守ってくれているはず、上手く行くはずだという思いがありました。しかし、世の中というものは、順風満帆なわけがない。特に、仕事なんて自分の思い描いた通りに簡単にいくわけがありません。その時に頼れるものがあるか、信じるものを持っているかどうか。この真理こそが、クリスチャンが神様から与えられている恵みなのだということに気づいたのは、少し後になってからです。
ある社会学者はこんなことを言っています。「おかしなことはなにも起こりません、という期待を『安心』といい、いろいろあっても、何が起こっても大丈夫です、という期待を『信頼』と呼ぶ。安心は脆弱ですが、信頼は強靭です。」本当に、そう思います。良い時であっても困難な時であっても、主を頼り、イエス様に祈り、聖霊様に助けを求める。素晴らしい恵みです。
この恵みに感謝するようになってから、「生き方」にも変化が出てきました。最初は上手く行かないことでも、主を信じて努力を続けていけば、必ず報われる、そのような確信が生まれてきました。若い頃の何でも出来るという「万能感」ではなく、ある程度、人生を経験してきた壮年(おっさん)になってからこその確信です。
今年50歳になりました。10年前に感じたイエス様の大きさと自分の小さいことの圧倒的なギャップ。それは今でも変わりませんが、少しでも近づきたいとう願いを持ち続けて努力すると、必ず報われる、その確信を持ち続けて行きたいと考えています。 ( オープンチャペルの証より )