Mikage Shinai Christ Church

みことばのちから

 

古妻恭子  御影神愛キリスト教会メンバー

 

私は、福井県のいちばん北にある、現在はあわら市、当時は金津町という、広い田園地帯に囲まれた小さい町で生まれ、高校卒業までをそこで過ごしました。小学生の頃本を読むのが好きで、よく図書室に本を借りに行きました。ある土曜日の午後、いつものように図書室に行くと、入って正面の窓から光が差していて、左手にある本棚の一冊の本を照らしていました。そこには、赤い表紙に金色で“聖書”と書かれた本があり、とてもきれいで思わず手に取り、その一冊だけを借りて帰りました。見るとその本は前編と後編に分かれていて、後編の方から読み始めました。途中で、ここがポイント、みたいな所があり、すぐにノートに書き写しました。それは、心の貧しい者は幸いである、から始まる言葉で、その意味は理解できませんでしたが、大事な所だと思ったので、その通りに書き写しました。福井は、仏教、中でも浄土真宗の教えが拡がっていて、地域の行事もそれに根ざしたものでした。

中学生の時に、神戸の垂水の教会で親戚のお葬式があり、母が出席しました。初めてキリスト教のお葬式に参列した母は、帰って来るなり、とても良いお葬式だった、と話し始めました。「牧師の話はとても解りやすく、素敵なお葬式で、私も是非クリスチャンになりたいわ。でも、いったいどのようにしたらなれるのか、誰も教えてくれないね。」と言ったので、私も即座に、「本当に誰も教えてくれないね。」と答えていました。何故、学校で教えてもらえないのか、とても不思議に思いました。

大学は兵庫県内の学校に進み、神戸の叔父さんの家から通いました。叔母さんはクリスチャンで日曜日には礼拝に出席し、いとこ達は教会学校に通っていました。叔母さんの友達に、「教会にいらっしゃいよ。」と誘われましたが、日曜日は安息日だから休まないといけないので、と言って断っていました。大学3年の時に室内楽の同好会をつくり、毎日放課後に集まって練習をしていました。最年長のチェンバロ奏者がある日突然、「僕な、バッハを理解するには聖書が解ってないといけないと思って、聖書を読み始めたんや。」と言い、それを聞いて、「なるほど、私も読まなければ」と思いました。話は前後しますが、大学2年の夏に、母が交通事故で突然他界しました。後に聖書の中の、あなた方のあった試練で、世の常でないものは無い、という御言葉に出会って、本当にその通りだと思いました。

社会人になって研修医の頃は、ただ知識と技術を身に着けるのに必死で、5年目頃からようやく意見を求められるようになりました。一方その頃から、それまで正しいとされていた事の中には、別の見解が現れて誤りだと言われたり、その時の情勢の流れに従ってその都度誘導されて行く事に、違和感を持つようになりました。よく言えば日進月歩、実は、それ程に、今が常に不完全な状態だという事で、「それならば、いつまでも変わらない、しっかりとした土台に立っていたい!」と思うようになりました。その頃私は、聖書を実用書として読んでいましたが、イエス様が生まれてから当時で2000年近く内容が変わっていないというだけで、充分信頼に値すると思いました。また、正しい人はいない、と書かれていること、それに、ヨブ記に出てくる友人達は、身近な所で目にする出来事と重なりました。人の本質は時を得ても変わらず、この聖書は本当に偽りの無い書物で、これを土台にすれば大丈夫、と思うようになりました。一方で、洗礼は受けても受けなくても変わらないんじゃないかなあ、という思いがありました。聖書には、信じる者は救われる、と書いてあるし、解説書と照らし合わせて聖書を読んで、解らない事は先生方に尋ねればいいし、それに、洗礼を受けていない私にも、教会の人は、皆親切でした。

受洗当日の朝も、ふと、そのような考えが心に浮かび、前の晩に買っておいたアップルパイを見つめて、これがもしミートパイだったら喜んで洗礼を受けるのに、と、ぼんやりと思って食べた所、なんと中身がミートパイになっていました。形が違うので、あり得ない事で、あまりに驚いて、そのまま洗礼を受けてしまいました。そして、洗礼を受けた後、はっきりと変わった事がありました。まず1つ目は、新約聖書、特にパウロが獄中で信徒に宛てて書いた手紙を読む時、それまでは、薄いレースのカーテンの向こう側で誰かに向かって語られているのを、こちら側で聞いているような感じでしたが、洗礼を受けたとたんに、そのカーテンが取り払われて、直接私に語りかけられる言葉になった事、そして2つ目は、イエス様をより近くに感じられるようになり、思いもよらない事が起きても、神様が一緒にいて何とかして下さるから大丈夫、と思えるようになった事です。

聖書の御言葉は大きな磁石のようで、その磁場の中に入れば、必ずひとつの方向、即ち神様の方向を向くことが出来て、更に深いところにエネルギーが与えられ、それが力になっていくのを感じる事が出来ます。神様はすべての人にこの恵みを備えていて下さって、頭で考えるよりも、まず勇気を出して一歩前に出て、自分で受け取ってみて初めて体感できるのだと知りました。そして、この体験を一人でも多くの方と分かち合う事ができたらいいな、と願っています。