救い!? ~何からの救い!?
御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二
教会に来ると「私は救われた!」「あなたは救われました!」という言葉を耳にする事があると思います。ただ一言で「救い」と言ってもいろいろな意味があります。一般的に「救い」というと「-」な状態から「0」もしくは「+」の状態になる時に「救われた」と表現するのではないかと思います。例えば、「病気が治って健康になった」「こじれていた人間関係が修復できた」「経済的な問題が解決した」そんなことが起こる時、人は「あ~良かった。救われた!」と言うのではないかと思います。
確かにイエス・キリストを信じる時に、このような人生の諸問題が解決することがあります。しかし、教会でいう「救い」というのは人生の諸問題が解決することだけをいうのではありません。キリスト教でいう「救い」というのは私たち、人間の内にあるもっと根本的な問題、その問題の解決を与えるもの、そこから救い出されることをいうのです。
それでは、どのような問題の解決が与えられるのでしょうか。それは第一に「罪」の問題の解決です。聖書に「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ3:23)という言葉がありますが、聖書は、私たち全ての人は神の前に罪を犯している、と言っているのです。もちろん、ほとんどの方は「私は罪など犯してはいない」とおっしゃると思います。私たちが考える「罪」というと警察や裁判所のお世話になるような罪のことを考えるかも知れません。しかし、聖書が言っている「罪」というのは、それだけのことをいうのではありません。もっと奥深くにある根本的な罪のことを言っているのです。一言で言うのなら神を信じない罪、神中心ではなく、人間中心、自分中心の心、その生き方のことを言っているのです。その人間中心、自分中心の生き方が、道徳的な罪から犯罪にいたる罪、もっと言うと戦争まで引き起こしてしまうのが、この「罪」なのです。
そして、さらに聖書は「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)と言って、「罪」を持つ人間の行き着くところは「死」である、ということを語っているのです。もちろん、神は愛であり、私たちが滅んでしまうことを望んではいません。しかし、この「罪」が私たちのうちから取り除けなければ私たちを「死」から救うことはできないのです。それでは私たちはこの問題をどのように解決すれば良いのでしょうか。そうです。この問題に解決を与えて下さったのが、イエス・キリストです。約2000年前にイスラエルに生まれたイエス・キリストが十字架に架かり死んで下さったことにより、私たちの「罪」は赦されたのです。聖書には「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル9:22)とありますが、神の前に犯した罪が赦されるためには、血の犠牲、いのちの犠牲が必要でした。血の犠牲が払われるならば、罪が赦されたのでした。そして、今や、イエス・キリストが私やあなたのために十字架に架かられ、この血の犠牲、いのちの犠牲を払って下さったのです。私たちが、そのイエス・キリストの払って下さった犠牲を感謝し、信じて受け取る時、私たちの全ての「罪」は赦されて罪の力である「死」の力からも解放されて自由にされるのです。そのようなイエス・キリストが与えて下さった恵みを味わう時、私たちは、「救われた!」という事ができるのです。あなたもイエス・キリストを信じてこの「救い」をぜひご自分のものして頂きたいと願います。