神に導かれて
御影神愛キリスト教会 神学生 塚本良樹
私がクリスチャンとして生きていることの最初のきっかけは、両親がクリスチャンという日本社会では非常に特殊な家庭環境で生まれたことです。そう言うと、「やっぱりそうですか」と言われそうですが、親がクリスチャンであることと、私がクリスチャンであることは必ずしも関係ないと思っています。もちろん、小さいころから聖書の話を聞くことができたことは、本当にありがたいことです。ある時期、「劇的にクリスチャンになった人がうらやましい」と思っていましたが、今ではクリスチャンの両親に生まれたことに本当に感謝しています。
ともかく私は、聖書に記された、神様がイエス・キリストを通してなされた救いの物語を小さい頃から信じていました。その意味では、私の罪はすべて赦され、天国に行く切符をもらってはいました。しかし、このことがどれだけありがたいことかということを知ったのは、つまり、クリスチャンとして生きていられることがどれだけ素晴しいことかということを知ったのは、大学に入ってからだったのです。
私は大学進学のため、生まれ育った神戸から東京に行きました。1年生の前期は、今から思えば、死んでいました。今だから言えることですが、当時の僕の心は自分の将来の夢(学者になりたかったのですが)といかにして彼女を作るかということにばかり向いていました。クリスチャンであるのに、日曜日に活動がある野球サークルに入り、そうであったとしても何らかの形で礼拝に行くべきであったのにそうせず、たまに行ける日があっても土曜の夜遅くまで飲み会などで騒いで次の日は起きたら昼だったというようなこともあり、だんだんと教会から足が遠のいていきました。聖書は読まず、もちろん聖書で言っていることを実行することもなく、人を見下し、人をうらやみ、自己中心的に生きていました。
おそらく普通の基準で見れば、そんなに悪いことをしていたわけではないかもしれません。しかし大切なのは、神様のことを考えれば、神様がどう見ているかを考えれば、あるいは神様が愛しておられる一人一人の人間の本当の尊厳を考えれば、ありえない生き方であります。神を信じているのに、神が悲しんでいることを一切気にせず、神を無視して生きていたのです。
その夏、私はいくつかの教会が集まる合宿に参加しました。合宿の講師は罪について語りました。それが、当時の私の姿そのものでした。「もちろん自分は十字架を信じているから罪は赦されている。でも、それにもかかわらず、こんなにも神を悲しませてきた。なんて申し訳ないんだ。」―なぜであるかは分かりません。しかし、そのように素直に思わらされたのです。そして、イエス・キリストの十字架が語られました。不思議なのですが、そのとき私は本当に感動したのです。ものすごく主観的で、感覚的な話なのですが、とにかく「すごい」と思わされたのです。
それから、私は毎週教会に行き始め、「神が悲しむ生き方ではなく、喜ぶような生き方をしよう!」という人生を目指すようになりました。しかし、クリスチャンはあくまでも「赦された罪人」に過ぎません。それからも、神様のことを忘れて、神様が悲しむことをして、人を傷つけたことも多かったです。
そのなかで助けとなったのは、KGK(キリスト者学生会)という大学生のキリスト教サークルでした。ともに聖書を読むなかで、疑問などを話し合ったり、祈り合うなかで、神様がどれほど偉大であるか、十字架の赦しがどれほど重いものであるか、聖書がどれだけ面白いか、教会がどれほど大切かということを何度も教えられました。神様はすばらしい方です。私を救ってくれたばかりか、アフターサービスとして、たくさんの仲間を与え、多くの励ましと気づきを与えてくださいました。だからこそ、私のような者でも、今クリスチャンとしてギリギリ生きていられるのだと思います。
私はこれから、アメリカの大学院で、さらに聖書を学ぶ予定です。神様のすばらしさをますます知り、それを全世界に伝えたいと願っています。