良い実を結ぶ人生
御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二
みなさんは、果物は好きでしょうか。私は最近苺狩りに行ってきました。楽しみにして行ったものの、苺はあまりたくさんは食べられないということを知りました(笑)
さて、聖書において、人生は「蒔くこと」にたとえられています。当然のことですが、果物の実は、種を蒔くことなしに実りません。そして、苺の種を蒔くと、苺の実ができ、りんごの種を蒔くとりんごの実ができます。苺の種を蒔いたのに、りんごの実ができるということはありえないのです。同じように、聖書においては、
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ人への手紙6章8節)
と言われています。ここで言う「肉」は、一般の意味ではなく、「罪」を意味しており、「肉にまく」は、神が悲しまれる「罪」を重ねることです。「霊」は、「神的なもの」という意味で、「霊にまく」とは、愛・喜び・平和など、神が望まれるあり方に生きることです。
私たちは、人生という畑に、何を蒔くかということに注意する必要があります。私たちは、蒔いたものしか刈り取ることはできません。罪を重ねる生き方は、「滅び」という最悪の結果に至り、愛・喜び・平和など、神が望まれる生き方は、「永遠のいのち」、すなわち喜びにあふれた人生を得るのです。
私たちにとって幸いであるのは、聖書が語る神は、私たちに「種」を与えてくださるということです。私たちは、肉に蒔いてしまう者であるかもしれません。しかし、そのような私たちに、イエス・キリストを通して、愛することを、喜ぶことを、そして平和を作ることを教え、そのような生き方へと導いてくださるのです。
果物の収穫も時間がかかります。自然界の原則と同じように、私たちの人生にとっての収穫も時間がかかります。しかし、聖書が約束しているのは、時間がかかっても必ず実を結ぶのだということです。前述の箇所の続きにはこのようにあります。
「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」 (ガラテヤ人への手紙6章9節)
必ず、刈り取ることのできる日が来ます。ですから、私たちは善に励むことができるのです。あなたはどんな種を蒔くでしょうか。神に愛・喜び・平和を与えられ、善に励む先には必ず大きな祝福があります。神を信じ、神が与えてくださる良い「種」を良い土壌に蒔いていきましょう。