驚くべき神の愛
岸部 誠 御影神愛キリスト教会メンバー
「なんじらは恵みによりて救われしなり」(エペソ2章5節・文語訳)
私の救いにいたるきっかけは今から60数年前であるが、アメリカから1人の宣教師が来られた。名はエレン・山田と言い、日系のアメリカ人であり、新任の宣教師は1年間の訓練期間があるので、フローレンス・バイヤス師(東灘神愛キリスト教会)のものとに身を寄せ勉強中であった。初めて赴任したときは三宮駅で降りることがわからず、神戸駅で降りられ「神のとびら」と読まれたそうである。師は神の戸が開かれるままに宣教の情熱に燃えてご奉仕された。「神戸」・・誰が名付けたのか分からないが考えてみると素晴らしい名前である。クリスチャンにとっては少なくとも縁の浅からぬ名前である。
あるとき、師から私に聖書研究会を行っているので来ないかとお招きを受け、私も多少の興味があったので行くことにした。それは週に一度の集まりであり、4~5名の人が集まっていた。お話の中で、タイタニック号の遭難のことがあった。イギリスから大西洋の北回りでニューヨークに着く当時の豪華船で、船長もいつもの慣れたコースであった。乗客も当然のことながら楽しい船旅であるはずであったが、運悪く流氷と激突し沈没するのである。救命ボートにむらがる乗客が助かるため、我先にとひしめき怒号が飛び交い、子供たちの泣き叫ぶ声でさながら、阿鼻叫喚をきわめた。ところが、これとは別に傾きつつある甲板に、宣教師の1団が喧騒とはよそに「祈り」、そして「主よ御元に近づかん」の賛美が流れていた。泣き叫ぶ集団とは別世界の姿であった。
私はこの話を聞いてから数日頭に残った。それば、死を目前にして彼らを平安ならしめるものは、一体何なのか?私の持っていないものを彼らは持っていると、深く考えさせられ、これをきっかけとして主を求めるようになった。後日、罪を悔い改め、イエス・キリストを受け入れ救われた。私の救われた証拠は聖書のマタイの福音書にある「子よ、心安かれ汝の罪許されたり」の言葉である。そして救われたばかりでなく、永遠の命のお約束を与えられた。それは
「我は甦りなり、命なり、我を信ずる者はたとえ死すとも生きん、生きて我を信ずる者は永遠に死を見ざるべし」(ヨハネ11章・文語訳)
これは、私の生涯における大切なみことばの1つである。
以後、よき師、よき先輩のご指導を受けながら、日曜学校のご奉仕をさせていただき、路傍伝道にも立たせていただき、トラクト配布など行ってきた。その後、あの激しい天幕伝道にも参加し、非常に疲れたが神の栄光を拝することができた。今は昔のような元気はないが、現在の希望は昔のリバイバル聖歌の歌詞にあるように「主の手に引かれて、いずくえなりとも御旨のまにまに日々従い行かなん」の心境に一歩でも近づきたいと思っている。私は若い時、イザヤ書に「虫にひとしいヤコブよ」(イザヤ41)という言葉にひっかかり、イスラエル民族の始祖ともいうべきあの偉大なヤコブが虫に等しいならば、それ以下の自分は何なのか、吹けば飛ぶようなチリかゴミかと卑下したことがある。その時、「我かぎりなく愛をもって汝を愛せり、故に我たえず汝を恵むなり」(エレミヤ31・文語訳)の言葉をいただき、考えてみれば、私のような罪深い、しかも無きに等しい者にまで届く神の愛を思う時、涙して感謝したことをおぼえている。
「わが命の日の続く限り、めぐみといつくしみとがわたしを折ってくるであろう。」(詩篇23・文語訳)