1月のメッセージ
弱い時にこそ強い 御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二
みなさん、新年あけましておめでとうございます。
今月は聖書の列王記上19:1~8というところから、お話をしたいと思います。この箇所には、エリヤという預言者(神のことばを預かって語る役職)が登場します。今回の箇所の前には、彼の確信に満ちた姿、彼による奇跡的な出来事、そして彼と、バアルという異教の神の預言者との対決と勝利などが描かれていることから、クリスチャンの間では、「勝利者」のようなイメージが強い人物です。
しかし、この箇所には、非常に弱気で、恐がるエリヤが描かれています。これは直接的には、当時のイスラエルの王妃イゼベルが、自らが崇拝するバアルの預言者がエリヤに殺害されたことに怒り、彼を24時間以内に殺すと宣言したゆえですが、エリヤは逃げ、冷静さを失い、「もう疲れた」と死さえ求めるようになります。神は、そのようなエリヤに失望したり、無理に叱咤激励したりすることはありませんでした。神はエリヤをそっと見守り、休ませ、またパンと水を与えて飲み食いさせ、眠らせ、また食事を与えるなど、非常にきめ細かいケアを行っています。
聖書が語る神は、信仰者が、信仰に燃えているときだけ愛する神ではありません。信仰者であっても、疲れるとき、神が分からなくなるとき、燃え尽きるときはあります。神は、そのようなときにこそ寄り添ってくださるのです。エリヤはなぜなぜこんなに弱り果てて疲れてしまったのでしょうか。聖書から推測すると、彼のエリート意識ゆえの孤独感(本当に頼ることのできる仲間は与えられていました!)、権力者との戦いによるストレスが原因であると思われます。
旧約聖書のイザヤ書40:31にはこのようなことばが書かれています。
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」
エリヤは、「主を待ち望む」のではなく、自分でがんばろうとしてしまいました。だからこそ、孤独感を深め、ストレスを覚え、また休むこともなかったのだと思われます。「主を待ち望む」とは、神に任せることです。重荷を、祈りのなかで、礼拝のなかで、神の前に降ろすことです。それは私たちを疲れから解放してくれるのです。
しかし、このような「疲れ」の経験はエリヤにとって有害だったというわけでもありません。エリヤにとって、それは自らの弱さを知る経験でした。人は、自分の弱さを知るとき、もっと神を信頼するようになります。興味深いことに、聖書に出てくる登場人物はだいたいが失敗しています。エジプトの総理大臣として活躍したヨセフという人物は、若い頃は自己中心で家族を見下げ、結果として奴隷として売られてしまいます。イスラエルをエジプトから脱出させたこととして知られるモーセは、エジプトでエリート教育を受けたことで、傲慢になっていたと思われ、殺人事件を犯してしまいます。イエスの弟子ペテロも、熱心な性格でしたが、軽はずみで、口だけで、最後にはイエスを三度に渡り否認していまいます。新約聖書のほとんどの手紙を書いたパウロも、かつてはイスラエルのエリートで、新興のキリスト教を迫害していました。
パウロは、新約聖書のコリント人への第二の手紙12:7にて、自分のからだには「とげ」があると書いています。これは、何らかの障害や病気であったと思われますが、それは彼が「高慢にならないように」与えられたものであると語っています。それを取り去ってくださるように祈ったものの、神様の答えはこのようなものであったと言います。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」それに対し、「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」とパウロは言っています(12:9)。
自分の弱さを覚える経験は、必ずしも悪いものではありません。もちろん、エリヤのような経験をしないにこしたことはないかもしれませんが、そのような経験もまた、神は善いこととして用いてくださるのです。このことを覚えながら、新しい一年をスタートさせましょう。