2013年11月 「主が私を助け支えられる!」
「主が私を助け支えられる!」
御影神愛キリスト教会員 中濱寿美子
神様が私の人生にどのように関わってくださったか、お話しさせていただきます。
私は五人兄弟の末っ子として生まれました。第一子が男の子で、父は商売をしていたので、もうひとり男の子が欲しいと願っていました。でも第二子は女の子、次も、次も、女の子。 そして五番にできた私も女の子で、「もう諦めた、これで終わり、子作りはすみました。」といって、寿美子という名をつけたというのです。私は親の期待を外して生まれてきたような、単に偶然で生まれてきたような思いが強く、「どうせ偶然ならもっとあったかい家庭に生まれたかった。何のために生まれたの?」とずっと思っていました。 それゆえか人見知りでとてもおとなしい性格で存在の薄ーい子でした(笑)。
そんな私も中学生になり、松蔭学園というキリスト教の学校に入学することになりました。 制服が出来上がり取りに行ったときに制カバンももらって帰りましたが そのカバンの中に聖書と聖歌が入っていました。 何だかとても嬉しくて、すぐに1ページ目から読み始めました。 もちろん全然わからなくてすぐにやめてしまったのですが・・・。また週に一度聖書の授業があり、中2のとき、創世記を学びました。 アダムとエバの食べてはいけないと神様に言われた実を食べてしまった、というところで先生は「罪の転嫁」と大きく黒板に書かれました。「神様が『食べてはいけない』と言った実をどうして食べたのかとアダムに聞くと『あなたが与えてくださったあの女が・・・エバに神様が問うと、蛇が・・。』と責任を人のせいにする、これが罪の転嫁ですよ。」とおっしゃいました。 そして、「あなたがたも同じように罪の転嫁をしていませんか? たとえば朝寝坊をしてしまって、飛び起きたとき、『どうしてお母さん起こしてくれなかったの!』とお母さんの責任にしてませんか? それが罪の転嫁、神様がいう罪なんですよ。」と先生はおっしゃいました。確かに私にも身に覚えがあり、私にも罪があるとはっきりわかり、 そのときから教会に行きたくなったことを今でも鮮明に覚えています。そして教会(この教会ではありませんが)に通い始めて半年ぐらい経った高1のとき、神様はひとり子イエス様を十字架にかけるほどに 罪のある私を愛してくださっていること、その十字架によって罪が許されていることを信じました。
しかし、約10年後の25歳から51歳まで、事情があり、教会を離れたので、神様ではなく自分だけを頼りにして生きていました。 その間に、結婚し、三人の子供ができ、離婚し、1人で子供を育てながら花の仕事をやり、懸命に生きていましたが、 その人生で知ったことは寂しさと自分の弱さでした。 それを埋めてもらおうと人に頼っても、それと背中合わせにあるのは裏切りと失望でした。
そんな思いのなかで、養うことに懸命で子供達を傷つけることも、また苦労をかけることも少なからずあったと思います。 今、思えばもっと時間と手をかけてあげればよかったと後悔が残りますが、それでも三人の子供達はまっすぐに育ってくれました。 心から子供達と神様にありがとうと言いたい気持ちでいっぱいです。 それは、私を愛してくださる神様が私の子供たちを愛してくださらないはずがなく、神様が育んでくださっていたことを今、確信できるからです。また挫折するたびに神様に思いを馳せ、教会にまた行こうか、と思いはしても勇気がなかった私に、神様は「この人と一緒なら怖くないだろう」と、この教会のクリスチャンである主人を与えてくださいました。
またエリヤハウスのミニストリー(キリスト教のカウンセリング)によって 私が生まれてきたことは単なる偶然でも期待外れでもなく、 神様の望まれる私を作るために、両親の元が一番良いとあの家に生まれてきたこと、 そして生まれた時に神様が最高に祝福してくださったことを知りました。 私の心の奥の奥に隠し持っていた傷を今、神様は一つ一つ癒してくださっています。裏切られることも失望させられることもない愛で、神様はひとり子イエス様を十字架につけるほどに、この私をどんな時も愛し続けてくださり、どんなときも助け導いてくださいました。 だから私は今、ここにいるのです。これからの人生は「この神様の愛に応えていきたい、神様に喜ばれる者になりたい」と願い、祈っています。
「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。 たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」 詩篇 37:23, 24