2018年10月”My Father, I do not understand you, but I trust you!”
「My Father, I do not understand you, but I trust you!」
(一つひとつの事が今の私に理解できなくても、私は私を愛して止まない神を信頼します!)
御影神愛キリスト教会員 長久愛子
冒頭は私の好きな言葉です。私の両親はこの教会で救われ、お腹の中にいる時から両親や色々な方々に祈られ、クリスチャンホームで育ちました。小さい頃は体が弱く、他の人が当たり前にできることがなかなか出来ない幼少期だったように思います。
あまり小さい頃に息をする事を考えることはないと思いますが、喘息が酷かった私は息をすると言う事が本当に難しく、苦しくて寝れず、食べれず、動くのもしんどい日がありました。学校に行っても休みがちで、学校を2・3日休むと友達付き合いも勉強もついていけず、そんな事もあってか社交的ではなく、家が大好きな内向的な子ども時代だったように思います。
母の記憶は今となってはあまりないのですが、私は母が大好きで安心感があり、いつも母が近くにいるのが当たり前のように思っていました。ところがその母が病気になり入退院を繰り返し、私が12歳の時に母は天に召されました。母が病気の間も教会に通い、母の病気が治るように祈っていました。でも、ふと母はひょっとしたら死ぬのかもしれないなぁ〜と子ども心に思う時もありました。
母が召されてしばらくは母が死んだ時の光景が頭から離れず、「私がお母さん死ぬかもしれないって思ったから死んだんや」っていう罪悪感のような思い。「私にはまだお母さんが必要なのに、なんで死なせたんですか?」という神に対する怒り。失望感が次から次へと押し寄せてきて、誰とも会いたくも話したくもないし、神なんてどーでもええと思っていました。こんなことを考えていると心だけではなく、体も具合が悪くなり私も入退院を繰り返し、家族とも友達ともあまり話さず過ごしていたように思います。
教会に行っても「お母さん亡くして、かわいそう」と言う同情の目で見られていると「神なんて」と言う思いから教会に行くのも嫌になっていました。そんな時、私が小学生だった頃の日曜学校の先生が姉へ伝言し「クリスマス、教会で待ってるからね。来れなかったら病院に行くからね〜」というものでした。その人は今から思えば物事をただハッキリ言うだけの人だったのですが、小学生の頃の私にはすごく厳しい人のように思え、その人が大好きな半面すごくビビっていたのも覚えています。その人が病院に来て祈るより、私が教会に行った方がマシだという思いで、その12月に久しぶりに教会に行きました。礼拝堂の一番後ろの席で誰にも声をかけられたくも見られたくもなく座っていたのを覚えています。
クリスマスの話は私が物心ついた頃から毎年聞いており、何も目新しいこともなく、クリスマスはイエス様が生まれた日、だからまた劇と歌を歌うんだろうなぁ〜とかなり冷めた気持ちでいました。その時に何をしたのかは覚えていないのですが、その時に私は神を自分の救い主なんだと言うことが初めて理解できたのです。
神は酷い死に方をすると分かっている自分のひとり子を他の誰でもない私を愛してるが故にこの地上に与えて下さった。私が神に悪態をつくことも、人を傷つけることも、私が生れながらの罪人であり、そのままでは神の前にでるような者ではないこの私の為に身代わりとなり、十字架で苦しみを受けることをもうすでに分かっていたにもかかわらず、ひとり子イエスに命を与えられたんだと分かった時に本当に大泣きしたのを覚えています。
多分、母の死がなければ、私にはこれがどれだけ凄いことなのか、また、愛する人を失う痛みや悲しさがどれ程のことなのか全く理解できなかったように思います。聖書の言葉の中に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とありますが、本当に神の時があり、それは私が思う時ではなく、今、私が分からなくても神の時なんだと言うことを思います。
神を信じてからも本当に色々な事があります。でも、私が私でいれるのは神の愛が変わらず私にあり、一つひとつの事が今の私に理解できなくても、私は私を愛して止まない神を信頼し続けたいと祈り願います。