Mikage Shinai Christ Church

2019年3月”神様の気持ち”

御影神愛キリスト教会員 後藤司

 

僕はクリスチャンホームに産まれました。物心ついた時から神様は一人、イエス様は自分の罪の為に十字架にかかって下さった、もう、それが「知識」として当たり前になっていました。  日曜日には教会に行く。両親の信仰生活についていくしかない幼い頃の僕は母親が日頃教会にいる事が多く、学校帰りには教会にまず寄って母親がいるかを確認してから自宅へ帰ったり、色んな聖会についていき色んなところで色んなメッセージを聞いたりと、生活の基準は神様となっていました。小学6年生になると信仰決心をし、洗礼を授かります。

 

ただ中学になり部活動が始まり、今までの生活の基準が神様から来ている事に不満を抱き始め、いつしか人の目を気にして教会にはいくものの嫌々になってしまっていました。キャンプに参加できた時は満たされて自分の罪を悔い改めるも、帰ってきてはまた元の生活にもどってしまう。高校に入ると素行の悪さは半端な物じゃ無くなってしまい、自分の生活は罪にまみれていました。

 

家族を泣かす事はもう日常茶飯事でした。教会ではそんな自分を覆い隠し、神様は見抜いているとわかっていながら、神様に心の底からではなく適当に悔い改め「これで神様は許してくれるな」「神様は僕を愛してくれてるからな」「神様は何をしても許してくれるし、後で悔い改めよー」「そもそも神様ってイエス様をわざわざ十字架にかけて僕の罪を許してくれたって言うけど、そんなん、神様やねんから罪なんか十字架かからんでも許してくれたらいいやん。全能の神ゆうてんのに、なんか恩着せがましいなぁ」と屁理屈の塊の様な人間になっていました。  

 

生活はますます乱れ、一見周りからは人生を楽しんでるように見えて僕の心に本当の満たしはなくいつもどこか悲しさと苦しみがありました。そして周りの人を傷つけ、自分自身も傷つけられては神様に文句を言うどうしようもない人間でした。ただ神様はそんな僕を見捨てずまだ愛して下さり許して下さっていて2つの事を教えられ、僕の心を変えて下さいました。  

 

まず1つ目は、「神さまの気持ち」です。僕の中で神様は愛してくれている罪をおかしても許してくれる、という事しか頭にありませんでした。気付かされた事、それは神様は僕が罪をおかすたびに涙を流して悲しんでいる。悲しみながらも罪を許してくれているという事です。僕はそれに気づいていませんでした。神様にも感情があるという事、そこに僕は気づいてなかったんです。  

 

そして、2つ目は、「十字架のもう1つの意味」です。十字架にイエス様がかからなければいけなかったのは、罪は償わなければならない物だから、そこで神様が罪をなあなあにして少しの罪でも許してしまうと義の神ではなくなってしまう神の義から反してしまう。だからひとり子のイエス様を涙を流しながら、僕の為にイエス様は苦しみながらも十字架にかかって下さった。それに気付かされて本当に自分の今までの罪を悔やみ、大きな神様からの愛に気付き、本当の悔い改めをしました。そして「知識」ではなく心から神様を信じたいと思い、今はまだまだ未熟なクリスチャンですが今は自分自身教会にいきたい!神様と関わりたい!神様の為にできることなら喜んで御奉仕したい!と思える様になりました。  この様に神様のしてくださったことを語る場を与えてくださった神様に感謝します。