Mikage Shinai Christ Church

2020年3月「自分の弱さを愛すること」

御影神愛キリスト教会員 久保祐輝

「生まれることはできなかったけど、祐輝には双子の兄弟がいたんだよ」

 おぼろげではありますが、物心が付いた頃にそう親から教わった事を、僕は覚えています。それを聞いた当時の僕は、その事実の裏にあったであろう大人達の悲しみや、悔しさの思いを想像する力もなく、「そうなんだ、会ってみたかったな」といった感想を抱くことしか出来ませんでした。しかし、クリスチャンの家庭に生まれ、教会で聖書の教えに触れていた僕は、神様とそのご計画の存在を知ると共に、こういう疑問を持つようになりました。どうして神様は僕を選んで下さったんだろう。

小さい頃の僕はとても泣き虫でした。事あるごとに泣きわめいていたので、思い返すとちょっとした名物だったんだろうなと笑ってしまいます。ですがその本質は、どうしたのと駆け寄ってもらう事で周囲からの愛情を確かめること、または上手くいかない事に対するいらだちを吐き出すこと、にあったと思います。この頃から僕は、自分を主張する事が苦手でした。そういった弱さを自覚し始めた頃、僕は自分の事を好きになれなくなりました。包み隠さず言うなれば、いらちで、ものぐさで、負けず嫌い、注意散漫等、こんなちっぽけな自分を知られるくらいなら、押し黙って良い子を貫いていた方がましだ。本気でそんなことを思い、自分の殻にとじ込もっていました。

そんな僕が変わるきっかけとなったものは、大学生の頃始めた音楽です。幼い頃から教会で歌や奏楽に触れていたため、音楽自体に興味はあったものの、気恥ずかしさから一歩踏み出せない状態にいました。ですが、何故かその時は固い意志を持って楽器を手に取る事が出来たのです。

そして、教会でも憧れだった奏楽の奉仕を与えられるようになったのですが、逆に、当時の僕にとってはそれが想像以上の重荷となっていきました。技術的な問題もありましたが、それ以前に、会堂中に響く音で演奏をすることが、今まで押し隠していた自分をさらけだすような感覚であることに気が付き、抵抗を覚えるようになったからです。そうやって、悩むようになっていた頃からでした。聖書の言葉や、礼拝で語られる先生のメッセージが響いて鳴り止まない、という経験を何度もするようになりました。今まで他人事のように聞いていた言葉が、自分に向けてのものだと思えるようになりました。

 

 『ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。』                          コリント人への第二の手紙 12:9

 

神様が、僕の双子の兄弟であった彼を先に引き上げられたのは悲しい事実ではありますが、同時に弱い僕を選んで用いて下さったという事実でもあります。これからの僕は、神様に愛されている事実に胸を張って、笑顔で賛美を捧げていきたいです。