2021年8月「結婚生活の証」
今日は僕たちの結婚生活のことをお話したいと思います。
箴言27:17 [鉄は鉄で研がれ、人はその友人の人格で研がれる(教会共同訳)]
箴言12:18 [あたかも剣で刺すかのように軽率に語るものがいる。知恵ある人の舌は癒やしを与える。]
この御言葉が本当に本当に真実だと、結婚生活を通して思うことができました。そのような証です。
恋愛や結婚生活の中で、仕事でもそうですが、神様がやっかいごとを用意してくれていて、それを乗り越えていく時に、新しいアイデア、考え方をくれるような気がします。新しいアイデアが与えられる時には毎回、目からウロコが落ちる気がします。そのようなアイデアによって僕は優しい人に変えられていっているなぁと感じています。それはつまり、友恵との結婚生活を通して、日々角が取れて優しくなれている気がするのです。昔と比べると、自分の中から焦りやイラつきが減っているのを感じます。
結婚した二人の間にある、様々な誤解は喧嘩に繋がります。またそれを「焦り」と「照れ」が加速させるのです。個人的にはこの二つが、多くのカップルの敵だと思っています。
これはある日の喧嘩の話。ある時、奥さんに「掃除をして」と頼まれて、僕が「嫌です」と断ったことから大喧嘩が始まりました。僕は掃除が嫌いなのです。ここで多くの人には引かれます(笑) 僕はそういった女性の頼みを断ってはいけない、怒らせてはいけない、と言うことが最近の男性の中で変な暗黙のルールみたいになっているのかもしれないと感じていました。
僕の中にも「絶対怒られる」と言う気持ちが出てきました。でも、我慢する事は結局ふたりのためにならないな、と結構勇気を出して断ったのです。我慢がつのると、奥さんへの愛に影響を及ぼす可能性がありますから、それでは本末転倒なので勇気を出したのです。感情は自分の支配下にはないですからね。
普段から「え~、別にそんなに汚れてないねんから汚れてから掃除すればいいやん」派の僕と、「できるときに掃除しておきたい」派の妻の対立はありました。長い長い話し合いを、何度も何度も繰り返し、最終的には僕の実家に泊まったときに朝の四時まで話し合い、戦いは終結しました。
解決に至らなかったとき、時間をおいてまた喧嘩するというのはオススメです。そしてその時のルールは「何度でも意見を変えていい」「前回言っていることと違うことを言ってもいい」としておくのです。そうすることで、何度でも話し合いをやり直せる、と言う安心感が得られるのです。僕は、一度言ったことを曲げるのはカッコ悪いというなんかよくわからないこだわりがあります。「男に二言はない」みたいな。それも割と無意識にその信念に持っています。やっかいです。なので、ちゃんと言葉にしてこれはOK、と言っておいたほうがいいなと思っています。
そして世紀の大発見をしたのです。「僕は掃除をしなくてもいい」タイプと僕自身のことを思ってたし、妻も思っていました。実はここに大きな誤解があったのです。僕の本心は、「自分の労力を使ってまでは掃除したくないけど、部屋が綺麗になる分には気分はいい」だったのです!!自覚はありませんでした。でも、こんな主張は許されないことだと思って無意識的に排除していたのだと思います。「ふざけるな!」って言われそうでそんなことは言えなかったのだと思います。だけど彼女はずっと、僕が「掃除をするなんて無駄だ」と思っていると思っていたので、彼女が掃除をするときも、「Hさんにとっては無駄なことをしているのかな。。」と寂しさを抱えながら掃除をしてくれていたのです。だから掃除を断られた時、余計にショックを受け怒りになったのです。
その誤解がまず明らかになりました。そして、彼女が画期的な解決法を思いつきました。それは、断るときに、「掃除についてはいいと思うけど、今はやる気が起きないからできない」と言ってくれたら嫌な気持ちがしない、と言うのです。これは目からウロコでした。もちろんこれは他の家庭に適応できる解決ではないと思います(笑) でも、彼女はその言い方だと自分がやってあげようと言う気になると言うのです。
驚く僕に妻は「だって、やりたくてもやる気が起こらないことはあるでしょう?」と、言ってくれました。「やる気が出ないからやらないなんて言ったら怒られるじゃないか!」と思っていた自分にここで気づきました。ここで「やるべきこと」への向き合い方にも違いがあることにも気づけました。僕はやるべきと思っていることをできるのにやらないなんてありえない!と思っていたのです。やるべきと思っている=やる、やらない=やるべきでないと思っている、と言う方程式が頭の中に勝手にあったのです。
ここに僕の傷があったのです。それは自分の怠惰な部分を憎む心です。そこがバレて怒られることにビクビクしていたのです。それを隠すために、掃除を無駄と言い張っていたのです。でも、この喧嘩を通して、やるべきと思っているけどやる気が出ないことは許されることだと知ったのです。ダメな自分でも嫌われないことを知ったのです。奥さんが「ダメなままでもいいよ。実はダメな事じゃないよ。」と教えてくれ、その傷が受け入れられ、癒されたのです。
このように自分でも気づいていなかった傷が表に現れてくる。夫婦生活における喧嘩はそんな役割があります。傷を認める事は、僕にとってめちゃくちゃ苦痛です。そもそも「そんな事ない!」って思っていることが多いです。プライドが高いので。でも共に祈り過ごす中で確実に表されていくのです。そしてその傷を認め、その傷が癒されていくとき、毎回感動します。二人で泣きながら祈ったこともあります。彼女に対して優しい僕でいられないとき、そこには傷があることが多いのです。
この喧嘩を経て、二人の喧嘩はめちゃくちゃ減りました。ちなみに掃除はだいぶ手伝うようになりました。喧嘩は大変だし疲れるけど、乗り越えた先に神様の計画があると思います。解ける誤解があり、気づく傷があります。その傷が癒されていく、良いコミュニケーションを通してそんな奇跡が起こるのです。
そんな結婚生活ができていることを日々神様に感謝です!