Mikage Shinai Christ Church

Ryo Tanemura

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1月 一年の計

 

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

明けましておめでとうございます。皆さんは、今年どのような思いで新しい年を迎えられたでしょうか。

この一年も皆さんにとって神様の恵み豊かな一年となりますようにお祈りいたします。

さて、ことわざに「一年の計は元旦にあり」とありますが、皆さんは、今年の計画は何か立てておられるでしょうか。計画と言わずとも、今年こそはチャレンジしたい事、成し遂げたい事などはあるでしょうか。

聖書に「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」

という言葉があります。確かに私たちの内には、いろいろな計画があると思います。ただ、その計画が全て実現できるか、というとそうとも限りません。実現できるものもあれば、できないものもあります。しかし、ここで言われていることは、ひとつだけ必ず成る計画があるというのです。それは、神の計画です。神様は、この世界に対して、また、私やあなたの人生に対して計画をもっておられます。そして、神様はそれを成し遂げることのできる方なのです。ですから、もし、私たちが、神様に「あなたが私に持っている計画は何ですか?教えて下さい。それを実現して下さい。」と願うなら、神様はそれを教え、導いて下さる方なのです。

それでは、神様が私たちに持っていて下さる計画とは何でしょうか。聖書のエレミヤ書というところにこんな言葉があります。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」

神様が、私たちに持っている計画は、災いを与える計画ではなく、平安と将来、希望を与える計画です。ですから、私たちは安心して「どうか、神様のみ心を行って下さい。」と祈ることができるのです。

新しい年を迎えたこの時、ぜひ、神様に「私に持っている計画があるなら教えてください。私を導いて下さい。」と祈って頂けないでしょうか。

皆さんにとって素晴らしい年となりますよう祝福をお祈りしています。

 

 

12月 あなたの名を呼ぶ神

 

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二

 

皆さんは、人から名前を呼ばれるとどんな気持ちになるでしょうか。嬉しい気持ちになるでしょうか。それとも嫌な気持ちになるでしょうか。おそらく多くの方は、嬉しいとまでは言わなくても良い感情を抱くのではないかと思います。インターネット等で調べて見ても、自分の名前を呼ばれる時、「自分のことを覚えてくれていた。」「自分を認めてもらっている感じがする。」という回答を見ることができます。また、聞いた話ですが、刑務所でも受刑者の人を番号で呼ぶような事はしないで、きちんと「○○さん」と名前で呼ぶそうです。それは、刑務所の目的は、受刑者の人が更生して社会復帰させることなので、受刑者をきちんと人として取り扱うためだそうです。

名前を呼ぶという、実に単純なことですが、そこにはとても大切なメッセージが込められてると思います。互いに名前で呼び合うことを大切にしていきたいものです。そして、神もまた、私たち一人一人の名を呼ばれる方なのです。聖書に

“ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」”

という言葉があります。これは神が私たち一人ひとりのことを覚えて名前を呼んでおられる方である、と読み取れる言葉です。もちろんここでは、ヤコブよ、イスラエルよ、と神に選ばれた民の名を呼んでいますが、今日、神は、あなたの名も呼んでおられるのです。

そして、あなたと個人的な、もっと親しい関係を築きたい、あなたと人生を共有したい、あなたを導き、あなたに愛と恵みを与えたいと願っておられるのです。ぜひ一度、ヤコブよ、イスラエルよ、というところにご自分の名前を入れて読んでみて下さい。そして、神があなたの名を呼び、あなたと特別な関係を持ちたいと願っている神様の思いに触れて頂きたいと願います。

 

11月 「神様の心」

 

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

聖書に次のような言葉があります。「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」まず前半の言葉に目を留めて頂きたいのですが、「人間の思いは…だれが知っていようか。」とありますが、これは「人の思い、人の心はその人自身でないとわからないものだ。」ということを言っているわけです。実際どうでしょうか。私たちは他の人の事を分かっているようで実は全然分かっていないということが結構あるのではないでしょうか。

以前、新聞の投稿にこんなことが載せられていました。ある方が電車に乗っていた時です。同じ車両にガラの悪そうなお兄さんが乗っていたそうです。それでなにか嫌だなぁーと思っていたそうです。しかし、電車が次の駅に到着して一人のお年寄りの方が乗って来られたのですが、その時、そのお兄さんがサッと立ち上がり、そのお年寄りに席を譲られたそうです。その様子を見ていて、その人は清々しい気持ちになったのと同時に、「あ~、人は見た目では分からないものだ。」と思い、人を外見だけで判断していた自分を恥かしく思われたそうです。

私たちも気を付けていないと、ついつい同じ事をしてしまいがちではないかと思います。私たちは、人を見た目や外見だけで「あの人は~~な人に違いない。」と決めつけたり、判断したりしないようにしたいものです。「その人の思いは、その人でしか分からない」のですから。それと同じように「神様の思い、神様が本当にどのような方であるか、ということも神様ご自身でしか分からないものだ」ということが、最初の聖書の言葉の後半で言われていることなのです。

実際のところ私たちは、先ほどの、人に対する勝手な決めつけや偏見をもって人を見てしまうように、神様のことも自分で勝手に「神様は~~~に違いない。」「神はこういうものだろ。」と決め付けてしまっていることがあるのではないでしょうか。しかし、人の思い、人の心というのも、その人自身でしか本当のところは分からないのと同じように、神の思い、神の心も、神ご自身でないと分からないものなのです。ですから、もし自分で勝手に「神は~~~に違いない。」と決め付けているかも知れない、と思われることがあったら、その思いを少し横において神に祈って頂けないでしょうか。「神様、どうかあなたの心を教えてください。あなたは、本当はどのような方なのですか。」と。そして、聖書を読んで頂きたいのです。聖書には神がどのような方か、神がどのような思いを持っているかが描かれています。聖書を通して神様の心を知ることができますようにお祈りしています。また、ぜひ教会にお越し頂けると感謝です。

 

 

10月 「言葉の力」

 

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

一般的にもよく言われることですが、言葉には大きな力があります。言葉によって人を生かすこともできれば、殺すことさえできてしまう。言葉には、そんな大きな力があることをよく考えます。

 

最近、言葉の力というものをつくづく感じさせられたお話を聞きました。北九州市で30年以上小学校の教師を務められた先生で菊池省三という方がおられます。この先生は長年に渡り学級崩壊したクラスを立て直す働きをされておられる方です。菊池先生は、どのようにしてクラスを立て直されたのでしょうか。それこそ、「言葉の力」によってでした。先生は、新学期が始まる時に子ども達に二つのことを聞くそうです。一つは、「クラスからなくしたい言葉は何ですか。」です。この事を聞くと子ども達から「死ね」「ばか」「消えろ」「キモイ」「ぶた」などの言葉が上げられました。そして次に「クラスに溢れさせたい言葉な何ですか。」と聞くと「ありがとう」「がんばったね」「成長したね」という言葉が上げられたそうです。そして、それらの言葉を教室に張り出して、なくしたい言葉はどんどん無くし、溢れさせたい言葉どんどん使うようにしていったそうです。

 

また、他にも「ほめ言葉のシャワー」と言って、毎日一人の日直を立て、クラスの皆にはその子の良いところを観察させるのです。そして一日の終わりに日直の子に向かってクラス全員、一人ずつその子の良いところを言っていくのです。そういう取り組みをする中で、子ども達一人一人が自分の良さに気づきはじめ、クラスの中で自分も認められていて大切な存在だという事が分かるようになって来たのです。そして、クラス全体の雰囲気もどんどん良くなってクラスが立て直されていくのだそうです。

 

このようなお話を聞いて、つくづく言葉の持つ力というのが絶大であるか、という事を改めて考えさせられました。私たちも日頃、どんな言葉を語っているか、あるいは、聞いているかによって人や自分を生かしも殺しもしてしまうという事を真剣に考える必要があると思います。イエス・キリストは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われました。神の言葉には、私たちを生かす力があります。私たちが、心を静めて神の言葉、すなわち聖書の言葉に耳を傾けていく時、心を留めていく時、私たちの心は強められ、励まされ、生かされていくのです。

 

ぜひ、一度、聖書を手に取って神があなたに向かって語られている言葉に耳を傾けて頂けないでしょうか。神の言葉があなたを生かしてくださるよう祝福をお祈りいたします。

 

 

 

9月 愛は人を変える

 

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 今月は、聖書の中から神の愛に触れて変えられた一人の人物を紹介したいと思います。それはイエス・キリストの12人の弟子の一人であったヨハネのことです。彼はイエスの弟子として選ばれた人物でしたが、人間的に見るならば彼は決して弟子としてふさわしい人とは言えなかったのではないかと思います。彼は気性の荒い性格だったようで、イエスから“雷の子”とあだ名を付けられるような人でした。

 聖書の中に彼の気性の激しさを物語る記事があります。ある時、イエスと弟子たちの一行がサマリヤ人たちの村へ入った時に村人たちはイエスを歓迎しませんでした。その時、ヤコブ(ヨハネの兄弟)とヨハネは、すぐさま「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。と言って怒りをあらわにするのでした。こんなところからもヨハネの気性の激しさを垣間見ることができます。

 こんなヨハネですが、彼は後にキリストの弟子として愛の人へと変えられていくのです。彼によって書かれた聖書の一つに「ヨハネによる第一の手紙」というものがあります。ここには互いに愛し合うことが如何に大切であるかが描かれています。例えば、4章には

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」とあります。

 このように彼は切々と愛し合うことの大切さを語り実践する人となったのでした。なぜ彼は愛の人へ変えられていったのでしょうか。それは何よりも彼自身が神の愛を経験したからでした。彼は主イエスの弟子としてイエスと生活を共にしました。そこで主イエスは彼に愛を注ぎ、彼もまた主イエスの愛を受け取りました。彼が聖書(ヨハネによる福音書)の中で自分のことを書く時には、「イエスの愛しておられた者」とか「イエスの愛しておられた弟子」と表現しているのです。それだけ彼は、イエスに愛され、その愛を受け取った人でした。そのイエスの愛が彼を後に愛の人へと変えていったのです。

 愛する皆さん、ヨハネに注がれたイエス・キリストの愛はあなたにも注がれているのです。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」

(ヨハネ15:13)とありますが、イエスはあなたのために十字架で命を捨てるほどにあなたのことを愛しておられるのです。

  主イエスを信じ、主イエスの愛を受け取って下さい。

 

 

 

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