Mikage Shinai Christ Church

教会だより

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2021年4月「神様って変わってる?!」

御影神愛キリスト教会員 T

  昨年4月から御影神愛キリスト教会に通わせて頂いています。見た目は中学生から大学2年生ですが、実は23歳で現在は専業主婦、6月に赤ちゃんが生まれる予定の妊婦さんです。

 

 わたしが神様を信じる決心をしたのは、高校生の頃です。父は三重の田舎教会の牧師、母も熱心なクリスチャンという家庭に3姉妹の末っ子として生まれた私は、神様という存在が前提の環境で育ちました。小学生の頃からは、姉たちの信仰決心をきいたことなどをきっかけに「神様を信じると決心するか」という問いを心の片隅で考えるようになりました。

 神の存在は論理的にも感覚的にも受け入れていた私にとって問題となったのは、「神様は信じる“べき”お方なのか」ということでした。信じたい気持ちはあったのですが何となく踏み切れず、姉たちが決心した年齢を過ぎ去っても「焦るもんじゃないしな…」と慎重になっていました。

 

そのまま高校生になったある時、クリスチャンのキャンプで牧師先生からこのような話を聴きました。

「病気のおばあさんの家にお見舞いに行ったとき、彼女が『こんな何もできない身体で神様に申し訳無い、私なんかいない方がいい』とおっしゃったんです。僕はその言葉に、『そんなことは神様の目から見て間違っている』と怒ってしまいました。…」「この先生も怒るんだ」と驚いたのと同時に、「あ、私は神様を信じる」と、その時思いました。

 なぜそうなったのか、決心から数年後により明確に、あの時受け取った神様のメッセージ・自分の信仰の中心となっているものの正体が分かってきました。それは、「『価値が無い』とするのは諫められるべき間違った解釈」だということ、そして、「私たち人間に絶対的な価値がある理由は、ただ神様が『価値がある』とおっしゃってくださるから、それしかない」!ということです。

 

 思えばかねてから、「価値が高い人」と「価値が無い人」という区別がある、という発想に何故かどうしようもない嫌悪感と行き過ぎた苛立ちを覚えていました。(「私は○○が優れているから価値があります」という雰囲気を出す人に対して「それ無い人のこと価値ないと思ってんのか」と心の中で怒る、みたいな。)ただ、価値の理由を説明することはできませんでした。そしてあの時、私たちに価値があるのは造り主である神様が「価値がある」とおっしゃって下さるからでしかない、それぐらい神様は圧倒的な存在なんだということを、言葉にするよりも先に思い知らされたんだと今は思います。

 

 「私たちの価値の理由は神様にある」というこのメッセージは、私にとってとんでもなく大きな恵みでした。まず、自分の価値を自分でつくらなくていいということは私を圧倒的に自由にしてくれました。良いことをしようとするとき、失敗がそんなに怖くない。役立てないときや評価されないときも、残念で辛いけど、全然怖くはありません。ありがたい…!また、自分以外の人の価値も神様という別次元で保障されているということも、無くてはならない恵みでした。恥ずかしいですが、「私は人が好きで、人の価値が分かっている。価値が無いとされる人たちの価値も見える」と昔は思っていました。

 

しかし数年前から、実は人好きでもないし「ケッ!」と思ってしまう人がいると思い知りました。私自身が、人を価値の高い低いで分けてしまう愚かさを持っている。そう気づいたとき、それを「間違っている」と止めて下さる神様の声は本当にありがたく、そして私が価値を見出せなくても関係ない圧倒的なところで人は大切なんだと決まっていて、私が人の価値を下げることは出来ない、ということは、神様の深い憐みであると知りました。私たちを「価値ある」と言ってくださる神様、変わってるなあと思いつつ、感謝でいっぱいです。私も神様と同じように考えられる様に変えられて行きたいなと思っています。

 

2021年4月「最も大事なこと」

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二

 

 今年も春の季節がやって来ました。やっぱり春は良いですね。桜をはじめ、あちらこちらに美しい花を観ることができます。春というだけで、希望が生まれてくる感じがします。キリスト教会においても、春の季節は、特別な時です。それは、毎年、この時期に「イースター」というお祝いの時があるからです。キリスト教会にとってイースターというのは、クリスマスと同じくらい、いや、それ以上に重要な意味を持つ日なのです。なぜなら、イースターがるからこそ、私たちがキリストを信じる意味があるからです。

 では、イースターとは、いったい何なのでしょうか。「イースター」というのは、日本語で言えば「復活祭」と呼ばれるわけですが、それは、十字架に架かられて死なれたイエス・キリストが、三日目に死からよみがえられたことを記念してお祝いする日なのです。

  聖書の中に、パウロという人が、最も大事なこととして語った言葉があります。 
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。」(Ⅰコリント15:3∼6)

 キリスト教信仰の中で、最も大事なことが、ここに描かれています。それは、キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたこと、そして三日目に死からよみがえったことです。なぜ、キリストの復活がそんなにも重要なのでしょうか。キリストは、この世で生活をしていた時、人々に「わたしは神の子キリスト(救い主)である。」と語っていました。でも、その「神の子」も、死んで葬られたままなら、普通の人間に過ぎなかったということになります。そして、人が、どんなに「イエス・キリストが私の罪のために死んで下さった救い主だ。」と信じたとしても、ただの人間を勝手に救い主だと言っているだけに過ぎず、その信仰には、私たちの罪を赦す力も何もないことになるのです。

 しかし、聖書は、確かにキリストは、死なれた後、三日目によみがえり、今も生きているまことの救い主だ、と言っているのです。そして、このキリストの十字架と復活を信じる者に、神は、罪の赦しと永遠のいのち、そして神の子となる力を人に与えて下さるのです。

 確かにこのことは、信じがたいことであるかも知れません。しかし、このことを信じるようになった多くの人々の内にキリストは、確かに生きて働き、救いの喜び、永遠のいのち、神の子どもとして生きる希望を与え続けているのです。あなたも、この、今も生きて働いておられるキリストを救い主と信じ受け入れてみてください。必ず、あなたの人生に真の神のいのちが宿るようになります。皆さんが、主イエス・キリストと出会うことができますようにお祈りしています。

2021年3月「神様との出会いと、そのお導き」

御影神愛キリスト教会 N

 

 ハレルヤ~! 主の御名を感謝します。
 私はキリスト教とは関わりのない家庭で産まれ育ちました。お盆には仏前でお菓子を食べ、正月には初詣に行き、クリスマスも同じようにプレゼントをもらう日でした。

 それまで知識でしかなかった神様を身近に思うようになったのは、次の春から就職活動を始めようという冬のことです。その少し前に教会へ通うようになっていた母に誘われ、ケーキを目当てにクリスマス礼拝へ参加しました。動機が不純ですね!

 訪れたのは当時住んでいた広島県の竹原ベテルキリスト教会です。牧師の新井先生ご夫妻による暖かな歓迎は私の中にあった静粛で厳しいイメージを粉々にし、ここは良いところだ~! とすっかり教会を受け入れるように。

 その日は不思議な事が起こりました。招かれていた講師の先生が私の前に来て祈られた時に「あなたは家を出て遠くに行きます」とメッセージをくださったのです。そして礼拝からの帰り道、東京で就職した先輩からの「ウチの面接をうけてみないか」と誘いがあったのです。これはどういうことなんだろう、一人考え込んでしまいました。

 結局、志望していた地元就職にこだわって東京の話は断りました。入社した会社はとても忙しく、私には不向きな営業職になったこともあり、調子を崩して退職という結果に。仕事の責任や期待を投げ出したことは重く私にのしかかっていました。

 神様のお導きではないからだと気づいたのは、しばらく経ってからのことです。鬱々としていた私を、神様は教会へ来なさいと示すために様々な誘いをしてくださいました。それこそお菓子につられて通ったことも! 牧師先生や教会に集う人との交わり、暖かな礼拝の時を通じて私の心はほぐされ開かれていきました。

 

 聖書の中には「主に従いなさい」という言葉がよくでてきます。それは一方的な命令ではなく、神様がより良い物を私たちに与えてくださり、より良い事を成すためのものだと分かるようになりました。

 洗礼の啓示が与えられた時もそうでした。神様の事を知っても、牧師先生から「神様はあなたを愛しておられる」と言われても、答えることはできませんでした。それがある日「洗礼をうけますか」と問われてすんなり「はい」と答えたのです。自分でも驚きました。導きに背き落ち込んだ私をすくいあげ、受け入れるまでの準備の時をも備えて下さったのです。

 

 今、私は教会の紹介で知り合った方と結婚しこの神戸へ引っ越しました。気軽に実家へ帰ることもできないこの状況下で、改めて「家を出て遠くに行きます」というメッセージを思い出しています。

【これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」】
ヨハネによる福音書21:19

2021年3月「穏やかな日々」

御影神愛キリスト教会 名誉牧師 杉本満子

 

 私の家には聖書のみ言葉の日めくりがあります。カレンダーではないので何年でも使うことができます。何年も使っている間には、同じみ言葉が何回も出てきます。けれども同じみ言葉に出会っても、不思議なことにいつもそれを新鮮に受け取ることが出来るのです。そしてみ言葉を読む度に、心は清々しく、明るくなり、感謝が湧いてくるのです。とても幸せです。

 近年、私たちの日常生活は、多くの情報や騒音が溢れていて、静かな時を持つことがむずかしくなっているのではないでしょうか。私たちはその多くの情報や、取り巻く様々な事柄によって、知らない間に心や思いが影響されてしまっていることに気付くのです。

 さて、皆さんは、ドン・キホーテの話をご存じのことと思います。最近は同名のお店もあるようで、多くの人々に彼の名はよく知られていることと思いますが、ここでドン・キホーテのお話を簡単に考えてみたいと思います。これはスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスと言う人が書いた風刺物語です。主人公のドン・キホーテは騎士物語を読みすぎて、現実と物語の区別がつかなくなり、瘦せ馬にまたがって、冒険旅行に出かけました。その途中、風車と巨人を見間違えたり、羊の群れを敵の大群と勘違いするなど、滑稽な冒険や失敗を重ねるというお話です。

 このお話から、人は日々の生活で、何を見、何を聞き、何に関心を持って生活しているかと言うことが、非常に大切だ、と言うことに気づかされるのです。自分の周囲を取り巻く様々な事柄にだけ目を向け、耳を傾け、心を注いでいると、どうしても近視眼的な生活に陥ってしまうのではないでしょうか。

 聖書に

「目を高くあげて、だれがこれらのものを創造したかを見よ」(イザヤ40:26)

と言うみ言葉があります。多くの人々は、日常の事柄に忙殺されて高い空を見上げるなどと言うことが、少なくなっているのではないでしょうか?昼は太陽が、夜は月星が大自然の中で輝いています。これらの物は一体どのようにして出来たのでしょうか?

 

 人類は、宇宙を征服しようと懸命になっています。けれどもこの広大な全宇宙を征服することなど到底出来ません。このような偉大な宇宙を創造し、そこに私という存在を置いて下さった方はどなたでしょう。

聖書は、

「主はとこしえの神、地の果ての創造者であって」(イザヤ40:28)

と記しています。この大自然を創造し、支配しておられる神はあなたという一人の人をも、大切に見守っておられるのです。

 

そして

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)

とも記されています。そうです、日毎に聖書の神を思い、聖書のみ言葉を読み、聞く時、私たちの心は、さまざまな心配事や雑音から解放されて、穏やかな平安に包まれるのです。

 あなたは今、不安に襲われていませんか?心配事を抱えていませんか?聖書の神様を見上げましょう。そして神様により頼みましょう。神様からの平安と喜びが与えられますように。

2021年2月「ありのままの自分でいい」

御影神愛キリスト教会員  N

 

 物心ついた頃からクリスチャンホームで親に言われるまま洗礼を受けたが、特に心がキレイになったわけでもなく、なんとなく大人になり、何か特別な才能を持ってるわけでもない普通の社会人になりました。

 まあ信仰深くはないとはいってもクリスチャンではあったので「今日の罪を赦してください。他の人の罪を赦します。」と、日々悔い改めのお祈りは欠かしませんでした。ちょっと前にインターネットで、とある創作ブームが起こり若い学生たちが自分の知らない技術を学びどんどん先に進んでいきました。自分も少し手を出してみましたが彼らに全く追いつけず、学生にすら劣る何の才能も無い自分に存在価値なんて無いんじゃないかと思い絶望しました。そんな失意の中、仕事帰りに歩いているとふと「いつも他の人を赦しますとお祈りしてるけど、その対象に自分自身は入れていないんじゃないか」という事に気づかされました。実は一番罪を犯していたのは何の才能もないと自分を裁き、自分に価値など無いと自分を軽蔑していた自分自身だったのです。

 聖書のマルコによる福音書11章25節という箇所に

「だれかに対して、何か恨み事があるなら、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。」

と書いてありますが、まさに日課であった「今日の罪を赦してください。他の人の罪を赦します。」という祈りで自分自身が許されたのです。才能が無くても社会から必要とされなくても、神は自分を愛してくださっているという事をこの聖書のみことばを通してその時初めて理解できました。この感覚は言葉で説明するのが難しく、体験して初めて理解できる類のものでした。

 その後も相変わらず特別な才能に目覚めたりはしていませんが、今の自分自身を受け入れ肯定して、何度もくじけながらもその度にこの体験を思い出して立ち上がり歩み続けています。

 

 

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