Mikage Shinai Christ Church

教会だより

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2013年10月「私は奇跡を信じる」

「私は奇跡を信じる」

 御影神愛キリスト教会 後藤 美佐

私が教会に行くきっかけになったのは、家の近くに建てられた教会で子供の集会があると案内されたことからでした。それがきっかけで教会学校に行くようになりました。それは小学校2年生の頃で、教会学校でもらえる珍しい文房具やお菓子などが目的でした。小学校5年生になった頃、自分の心の醜さに嫌気が差すようになってきました。というのは.私には2つ上の兄と6つ下の妹がいるのですが、その妹が、私と兄が学校に行っている間、わたしの大切にしているものをいつもぐちゃぐちゃにし、ときには壊しているということもあったりして、そんな妹に対する苦々しい許せない心があったからです。頭ではまだ小さいし仕方がないとわかっているのですが、心の中ではなかなか許せなくて「どうして許してあげられないのか」と、許すことのできない自分がとても嫌でした。

そんなある日、聖書を読んでいると、ちょうどイェス様が十字架にかかられるところだったのです。何の罪も犯していないのに、体にはムチを打たれ、いばらの冠をかぶらされ、散々な目に合わされている、そのイェス様が十字架の上で自分に苦しみや痛みを負わせている人たちのために「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と祈られているのです。それを読んだとき本当に感動しました。「イェス様はすごいな!わたしもこんなイェス様のようになりたい!」と思いました。イェス様を信じたらイェス様のように人を愛し、人を許せる清い人になれるなら、イェス様を信じます。どうかわたしの醜い心を清め、許して下さいと心から祈ったのです。

CJC04そして、イェス様を信じました。それから、イェス様のようになりたいと強く思うようになりました。とはいえ、イェス様のようにはなかなかなれません。けれども、少なくともわたしの心の中からは妹に対する苦々しい許せない思いが取り去られ、妹を慈しむ思いが与えられました。

今でもいろいろな出来事によって様々な感情が起こってきますが、それらに囚われることなくすぐに穏やかな心が与えられます。私はイェス様と出逢えて、イェス様を信じることができて本当に良かったと思っています。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。ローマ8:15」

2013年9月「ひとすじの光が!」

「ひとすじの光が!」

 御影神愛キリスト教会 田中多恵子

現在、私は母と主人、息子、娘と共に、神様の愛の中で、感謝な生活を送っております。こんな私がなぜここに居るのか、お話させて頂きます。

私が9歳の頃の話です。今から半世紀ほど前になります(笑)。私の父は、仕事も真面目で穏やかな性格で、そして子煩悩な人でした。自然が好きで山や海へよく連れて行ってくれました。しかし、そんな父がお酒を飲むと豹変してしまうのです。仕事帰りや家でお酒を飲んで、物を投げたり母に暴力を振るったり自ら傷つけたり・・・。私は毎日のように怯えていました。度々警察のお世話になり、私も母と一緒に警察へ父を迎えに行ったことを覚えています。それでも父をなだめながら母は耐えていました。家の中も心も暗くなるばかりでした。

そんな時に日曜学校へ導かれて行きました。それは、私の家のお隣におられたクリスチャンのご婦人が母に勧めてくださったことがきっかけでした。そこは別世界でした。牧師先生も牧師婦人も輝いて見えました。特に牧師婦人の満子先生が足踏みオルガンを弾きながら歌っておられた美しい声と笑顔にとても惹かれました。私も歌うことが好きになりました。アメリカ人宣教師の先生は優しい眼差しで、美しい聖画のカードをくださいました。すべてがキラキラしていて、日曜学校へ通うのが毎週楽しみでした。ところが、小学生から中学生時代の私の性格は暗く、友人にも心を開くこともありませんでした。家の中は相変わらず暗く荒れた状態でした。ところが、日曜学校に通ううちに、少しずつ心の中が変化してきたのです。「わたしは世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩くことがなく、いのちの光を持つのである。」(ヨハネ8:12)という聖書の言葉のように、聖書は私の心を照らす、ひとすじの光となりました。

毎週の日曜学校や礼拝を通して、神様の言葉が希望になっていきました。こんな私の全てを知って愛してくださる神様がおられる・・・涙があふれてきました。やがて高校2年生の春、5月14日、住吉川の上流で同級生の丸山真智子さんと共に洗礼を受けさせていただきました。その頃から教会のご奉仕もするようになり、まず、日曜学校の助手、そして教師になりました。今も、私が神様から受けた多くの恵みを幼い子どもたちに伝えています。

父は7年前に亡くなりましたが、晩年は神様を信じ、良い父として、また良いおじいちゃんとして平安な日々を過ごすことができ、天国へ召されました。どんな困難も乗り越える信仰が与えられたことも、私たちが教会へ行けるよう声をかけてくださった方があったことも、すべてが奇跡なのです。神様に感謝を捧げます。ハレルヤ!

最後に大好きな聖書のお言葉を紹介いたします。

「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて万事を益としてくださることをわたしたちは知っている。」ローマ人への手紙8:28

(7月 オープンチャペルの証より)

2013年8月 ほんとうに信じられるものがある

御影神愛キリスト教会 会員  土井 啓明

昨年の2012年12月、洗礼を受けて10年が経ちました。洗礼を授けていただいたのは30代最後の年です。それまでは、家族にもクリスチャンは一人もおらず、教会には一度も行ったことがない「完全なるノンクリスチャン(!)」でした。一方で、結婚式は大阪の住吉神社で行ったり、禅寺に早朝座禅を組みに行ったりと、人知を超えた大きな存在に対しての敬う思いは持っていました。

そんな私が教会に行くきっかけは、仕事の「行き詰まり感」があったからでした。そんな時、ふと立ち寄った書店で2冊の本と出会いました。1冊目は『最高の上司になるシンプルな方法』 副題が「イエスのEメール」というPHPから発行されているビジネス書です。最初のページを開くと、マタイ7章3-5節「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 (中略) 偽善者たち、まず、自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」 この節を読んだ瞬間、「正すべきは、まずは自分の心や行いなのだ」と、心に”グサッ!”と突き刺さるものを感じました。この書は、この調子で、自分のことを内省させ、自分の中にあった罪というものに初めて気づかせてくれました。

もう1冊は、『この1冊で聖書がわかる』という三笠書房から出されている気軽に読める教養書です。それに書かれていたのは、「聖書でイエスが伝えようとしていることを一言でいうと、『愛』である。」 「愛」というとそれまでの私は、「異性に対する恋愛」くらいの理解しかありませんでした。イエス・キリストの愛を知るにあたって、その圧倒的な愛の大きさを感じ、「聖書が言っている愛はあまりにも自分にとってハードルが高すぎる。」と自分の愛の不足感に立ちすくんだことを覚えています。

そんな私は、信仰が守られて10年が経ちました。10年前には1%も想像していなかったことです。「まさかの10年です。」このまさかの10年を振り返ってみると、最初の頃は、信仰を持ったのだから、仕事も生活も全て神様が守ってくれているはず、上手く行くはずだという思いがありました。しかし、世の中というものは、順風満帆なわけがない。特に、仕事なんて自分の思い描いた通りに簡単にいくわけがありません。その時に頼れるものがあるか、信じるものを持っているかどうか。この真理こそが、クリスチャンが神様から与えられている恵みなのだということに気づいたのは、少し後になってからです。

ある社会学者はこんなことを言っています。「おかしなことはなにも起こりません、という期待を『安心』といい、いろいろあっても、何が起こっても大丈夫です、という期待を『信頼』と呼ぶ。安心は脆弱ですが、信頼は強靭です。」本当に、そう思います。良い時であっても困難な時であっても、主を頼り、イエス様に祈り、聖霊様に助けを求める。素晴らしい恵みです。

この恵みに感謝するようになってから、「生き方」にも変化が出てきました。最初は上手く行かないことでも、主を信じて努力を続けていけば、必ず報われる、そのような確信が生まれてきました。若い頃の何でも出来るという「万能感」ではなく、ある程度、人生を経験してきた壮年(おっさん)になってからこその確信です。

今年50歳になりました。10年前に感じたイエス様の大きさと自分の小さいことの圧倒的なギャップ。それは今でも変わりませんが、少しでも近づきたいとう願いを持ち続けて努力すると、必ず報われる、その確信を持ち続けて行きたいと考えています。       ( オープンチャペルの証より )

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