Mikage Shinai Christ Church

教会だより

4月 二人は一人にまさる

 

御影神愛キリスト教会 主任牧師 瀬古 慎二

 

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。・・・またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。」(聖書「伝道者の書4:9~12」)

よく思うことですが、二人か三人か、あるいは二人か四人かというのにはあまり大きな違いは感じないのですが、一人か二人かというのには本当に大きな違いがあるなと思います。例えば、どこかの知らない国に出かけて行ったとします。その時に一人で行くのと二人で行くのとでは不安やストレスを感じる度合いというのは全然違うものではないかと思います。また、何か新しいプロジェクトを始める時でも一人で取り組むのと二人で取り組むのとではやはりその負担は全然違うのではないかと思います。旅行やプロジェクトにしても二人なら相談もできるし、責任や重荷を分け合うこともできます。しかし一人だと不安も責任も全部自分一人で負わなければなりません。それは時に大変なプレッシャー、ストレスを感じるものではないかと思います。つくづく「二人は一人にまさっている」と思わされます。特にこれが人生の試練、苦しみや痛みを経験するような時にはなおさらではないでしょうか。私たちは生きていると苦しみや痛みを経験する時がやってきます。ある人は健康の問題、ある人は経済的な問題、また、ある人は人間関係での問題、誰もが何かしらの試練というのを経験することがあるかと思います。しかし、そんな時に寄り添ってくれる人が一人でもいたらどうでしょう。どんなに心強いことかと思います。そういう人がいるという人は本当に幸せな人だと思います。しかし、どんなに親しくどんなに信頼できる人であってもその人と永遠に一緒にいることはできません。日常生活の上でもそうですし、また、別れの時も必ずやって来ます。ですから人間同士だけの関係だけでは、どうしても一人になる時があるものです。

しかし、決してあなたから離れることなくいつもあなたのそばにいて下さり、あなたを助けて下さる方がいるのです。その方こそイエス・キリストです。イエス様はこう言っています。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」と。

イエス・キリストはあなたを決して見捨てたり見放したりはしません。いつもあなたと共にいてあなたを助け、あなたを導いて下さるのです。このイエス・キリストを信じて、一人ではない、いつもキリスト共に生きる人生の素晴らしさを味わっていただきたいと願います。

 

3月 負の連鎖を止める者

御影神愛キリスト教会 主任牧師 瀬古 慎二

 

唐突ですが、「あなたはさばかれるのは好きでしょうか?」また、さばきとはちょっとニュアンスが違いますが、「怒られたり、批判されたりするのはどうでしょうか?お好きでしょうか?」たぶん普通は誰もさばかれたり、怒られたり、批判されたりはされたくないと思います。

それでは、私たちはさばかれたりしない何か良い方法というのはあるでしょうか。

聖書にはこんな言葉があります

「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」(ルカ6:37)

私たち人間は、人に裁かれたら裁きかえしたくなる。やられたらやり返したくなる。そんな性質があるのではないでしょうか。数年前に「倍返しだ!」という言葉がはやりました。(実際に「倍返し」できるかどうかは別として)まさに人間の性質を表していると思います。しかし、どうでしょう。皆が皆、さばく思い、復讐心や負の思いを持って生き、その思いをぶつけ合って生きていたとしたら、どうなるでしょう。一人のさばきが次のさばきを生み出し、2倍、4倍、8倍、16倍、32倍・・・と次々と負の連鎖を起こして誰にも止められない、コントロールできない状態になってしまいます。もう既に現代の社会はそのような状態なのかもしれません。

では、この負の連鎖を止めるにどうしたら良いのでしょうか。そうですね。それには誰かが、その連鎖反応を止める決断をすることです。やられたらやり返す、さばかれたらさばき返す、ということを止めて、「私はやり返しません。私はさばきません。私は赦します。」ということを決断し実行する必要があります。そういう人によって負の連鎖が止まるのです。それは負の連鎖を止めるだけではなく、その人が愛と赦しを注ぐとき、今度は人を生かす連鎖が始まるのです。

もちろん、こんなことは誰もが簡単にできることではありません。しかし、既にこの事を私たちのためにして下さった方がおられるのです。その方こそイエス・キリストです。イエス・キリストは私たち全ての人間の罪をその身に負って十字架にかかり死んで下さいました。それは、何を意味しているのでしょうか。それは、イエス・キリストが、神に向かって「悪いのは私です。人間の罪の責任は全部私にあります。その全ての責任を私が負って十字架に架かって死にますから、全ての人の罪を赦して下さい。」というものなのです。そして、キリストは十字架で死なれました。その命の犠牲を見て神は「分かりました。あなたの命に免じて人々の罪を赦します。」と答えて下さっているのです。まさにイエス・キリストは負の連鎖を止めるために自分が悪者になり、自らの命を犠牲にして下さったのです。それは私たちの上に神の裁きが下らないようにするためなのです。

「神はそのひとり子(イエス)を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(イエス)を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子(イエス)によって、この世が救われるためである。彼(イエス)を信じる者は、さばかれない。」ヨハネ3:16~18

今、この事実を受け止め、自分の罪を悔い改め、キリストが私たちのためにして下さったことを信じる者には、神のさばきはもはやなく、罪の赦しと永遠の命が与えられるのです。ぜひ、キリストがあなたのためにして下さったことを信じて神の赦しと命を受け取って頂きたいと願います。そしてキリストが私たちに愛と赦しを与えて下さったように、私たちも人をさばくのではなく、人に愛と赦しを分かち合う人生を歩ませて頂きましょう。

 

 

2月 医者が必要な人は

御影神愛キリスト教会 主任牧師 瀬古  慎二

 

皆さんと一つ考えてみたいことがあります。

それは、「医者が必要な人とはどんな人でしょうか。また、病院にはどんな人が言っているでしょうか。」ということです。そうですね。当然、医者が必要な人、病院に行く人というのは、病人ですね。健康な人には医者も病院も必要ないでしょう。

それでは、さらに考えてみたいのですが、医者や病院に行った人だけが病人なのでしょうか。そうではないですね。医者にも病院にも行かないけれど病人だという人もいます。例えば、(私もその一人なのですが、)病院に行くのが嫌いだという人がいると思います。少々の風邪ぐらいだったら、家にいて自分で何とかしようとする人もいると思います。そういうタイプの人を見ても、病院には行ってはいませんが、病気だという人は確かにいると思います。

では、本当のところ、どういう人たちが医者や病院に行く人たちなのでしょうか。

それは、自分が病気であることを認めた人、そして、その病気が自分でだけでは治せない、医者や病院の助けが必要だと認めた人、そんな人が医者や病院に行っているのだと思います。そこで、もう一つ考えてみたいのですが、それは、キリスト教会に行っている人たち、クリスチャンと呼ばれる人たちというのは、どういう人たちなのでしょうか。教会に行っている人たち、クリスチャンというのは、正しい人たち、間違いなど犯したことのない人たち、完璧な人たちなのでしょうか。そうではないのです。教会に行っている人たち、クリスチャンとなる人たちも、間違いを犯すこともあるし、失敗もします。決して完璧な人たちではありません。それでは、クリスチャンとは何者なんでしょうか。また、どんな人たちが教会に行っているのでしょうか。

それは、「自分には弱さがある、罪人である。」ということを認めた人たち、そして「自分には神様の助けが必要です。イエス・キリストの十字架による罪の赦し、救いが必要です。」と認めた人たちがクリスチャンであり、教会に来る人たちなのです。イエス・キリストはこのように言われました。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と。ここで言う医者というのはイエス・キリストのことです。そして、病人というのは、私たち一人ひとりのことです。誰でも自分の罪深さ、弱さを認めてイエス・キリストのところへ行くなら、医者がその患者を労わり、癒してくれるように、キリストは私たちを迎えてくださり、罪を赦し私たちの内に神にある新しいいのちを注いで下さるのです。

医者嫌い、病院嫌いの方も、どうかあなたを愛し、あなたに神の助けといのちを与えてくださるイエス・キリストという素晴らしい医者のもとに来られることをお勧めいたします。

 

 

 

変えられていく私

御影神愛キリスト教会 会員  ご婦人

 

3年前の2月3日、私はここ御影神愛キリスト教会で洗礼を受けました。そんな まだクリスチャンとしては日の浅い私ですが、この3年間のことを少しお話させていただきます。

私がこの御影神愛キリスト教会に来るようになったのは洗礼を受ける約半年前でした。きっかけは、主人が小学生から高校生の頃まで、ずっとこの教会に通っていたことです。

通い出してしばらくした頃、牧師夫人である博子先生から洗礼のお話をいただきました。目の前に「洗礼」という目標を与えていただき、それに向けて受洗講座を受け、テキストを何度も読み返し、予習復習も欠かさずにしました。そして皆さんに祝福していただいて私は洗礼を受け、クリスチャンになることが出来た喜びと目標を達成することが出来た喜び、そして「これで私もやっとこの教会の一員になれた」という喜びに満たされました。

でも、そのあと、目の前の目標を達成した私は 次に何をすればいいのか、わからなくなりました。「聖書を読まなければ!」と思うのですが なかなか毎日続きません。「お祈りをしなければ!」と思うのですが すぐに忘れて一日が終わります。クリスチャンにとって ごく自然に当たり前にするこれらのことが、私にとっては「意識しないとやらないこと」なのでした。私は何のためにクリスチャンになったのか、これから先はどんなふうにしていけばいいのか…と考える時期がしばらく続きました。

そんな私の様子を気遣い、教会の一人の友人が、私に「聖書を読んで、その箇所を毎日メールで語り合いましょう。」と声をかけて下さいました。また別の方は「最初は意識して習慣付けていくことが大切」と教えて下さいました。そしてまたある人は「一人ではなく共に祈ることの大切さ」を教えて下さり、時間を見つけて礼拝堂で一緒に祈りの時間をもって下さいました。こうして今、私は少しずつ変えられていっています。それは神様のお導きと、この教会の皆さんの支えがあったからです。自分ひとりでは何も出来なかった私に、神様はいろんな形でいろんなものを与えて下さったことに 本当に感謝しています。
この先 さらにどんなふうに変えられていくのかがとても楽しみです。何年か先にまたそのことをお話出来れば嬉しいです。

 

 

1月 何を見ていますか

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

明けましておめでとうございます。年の初めにあたり、皆さんはどのような思いで過ごされているでしょうか。将来に対する希望、あるいは不安もあるかも知れませんが、皆さんのこの一年が神にあって素晴らしい一年となるようにお祈りしています。

 

皆さんの人生が素晴らしい一年となるように一つ考えて見たいのですが、それは、「あなたは何を見ていますか?」ということです。私たちは日頃、何を見ているか、ということはとても重要な意味があると思います。何を見ているかによって、自分の人生の歩む道、方向性というのが私は時々バイクに乗るのですが、バイクに乗っていて気持ち良いな、と感じる瞬間があります。それは、カーブをスムーズに走っていく瞬間です。バイクと一体になってス――ッとコーナーを曲がれた時は本当に気持ちが良いものです。コーナーを上手に曲がるためにはいくつかのポイントがありますが、その一つは、目線です。バイクというのはおもしろい乗り物でライダーが見ているところに向かって走っていくものなんですね。ですから、カーブを曲がっていく時、目線をしっかりとコーナーの出口に合わせて行く時、バイクはスムーズにカーブを曲がって行ってくれるのです。これが、怖がって手元を見たり、周囲を見たりすると失速したり、事故を起こしたりするかもしれません。

 

私たちの人生もそれと似たようなところがあると思います。私たちが何を見ているかによって、その行き着くところ、方向が決まっていくように思うのです。それでは、私たちは何を見ながら生きていくとよいのでしょうか。聖書には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル人への手紙12:2~3)とあります。私たちが、イエス・キリストにしっかりと目を向け、イエスを信頼して人生を導いていただくなら、イエス・キリストが私たちの心に元気を与え、生きる力を与えて下さるのです。

 

愛する皆さん、新しい年も希望や不安があるかも知れません。しかし、あなたも主イエスを信じ、心の目をしっかりと主イエスに合わせて行くなら、どんなことがあっても力強く歩むことが出来るのです。ぜひ、この年、主イエスと共に歩む人生を味わって頂きたいと願います。