Mikage Shinai Christ Church

教会だより

1月 何を見ていますか

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

明けましておめでとうございます。年の初めにあたり、皆さんはどのような思いで過ごされているでしょうか。将来に対する希望、あるいは不安もあるかも知れませんが、皆さんのこの一年が神にあって素晴らしい一年となるようにお祈りしています。

 

皆さんの人生が素晴らしい一年となるように一つ考えて見たいのですが、それは、「あなたは何を見ていますか?」ということです。私たちは日頃、何を見ているか、ということはとても重要な意味があると思います。何を見ているかによって、自分の人生の歩む道、方向性というのが私は時々バイクに乗るのですが、バイクに乗っていて気持ち良いな、と感じる瞬間があります。それは、カーブをスムーズに走っていく瞬間です。バイクと一体になってス――ッとコーナーを曲がれた時は本当に気持ちが良いものです。コーナーを上手に曲がるためにはいくつかのポイントがありますが、その一つは、目線です。バイクというのはおもしろい乗り物でライダーが見ているところに向かって走っていくものなんですね。ですから、カーブを曲がっていく時、目線をしっかりとコーナーの出口に合わせて行く時、バイクはスムーズにカーブを曲がって行ってくれるのです。これが、怖がって手元を見たり、周囲を見たりすると失速したり、事故を起こしたりするかもしれません。

 

私たちの人生もそれと似たようなところがあると思います。私たちが何を見ているかによって、その行き着くところ、方向が決まっていくように思うのです。それでは、私たちは何を見ながら生きていくとよいのでしょうか。聖書には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル人への手紙12:2~3)とあります。私たちが、イエス・キリストにしっかりと目を向け、イエスを信頼して人生を導いていただくなら、イエス・キリストが私たちの心に元気を与え、生きる力を与えて下さるのです。

 

愛する皆さん、新しい年も希望や不安があるかも知れません。しかし、あなたも主イエスを信じ、心の目をしっかりと主イエスに合わせて行くなら、どんなことがあっても力強く歩むことが出来るのです。ぜひ、この年、主イエスと共に歩む人生を味わって頂きたいと願います。

 

 

”Through it all” … 「何があっても」

御影神愛キリスト教会員 有川ジョイ

私はフィリピンのマニラで生まれ、カトリックの家族の中で育ちました。私の父は公認会計士で、母は主婦でした。私は5人兄弟の長女です。そして、日本人の夫と8歳の息子と3歳の娘という神様に祝福された家族を与えられています。私は現在、西明石にある幼稚園で英語を教えています。私はかつて、毎日曜日には教会に通っていましたが、神様を近くに感じてはいなかったと思います。私は12歳のとき、父が心臓発作で他界しました。それは、私の生活において悪夢の始まりだったのです。母が働きに出るようになり、私は3人の弟や妹の面倒をみなければならなくなりました。母は私たちの飼っていた犬をご近所に売って、食べ物を手に入れたのを覚えています。お金がなくて困窮した時にこそ、本当の友達かどうかがわかるんだなと、そのとき思いました。親戚でさえ、何か高価なものを抵当に入れなければ、お金を貸すのを嫌がるものです。その時から、私は自信をなくし、人に対してよそよそしい態度を取るようになってしまいました。友達と出かけることもほとんどなくなり、学校にも行きたくないと思うようになりました。まわりの人は誰も信じられなくなってしまったのです。ある日、家の前で、友人と話をしているとき、全く知らない女の方が私たちに近づいてきて、クリスチャンの集まりに参加するように誘ってくれたのです。なんだか、面白そうに思えて、その集まりに参加しました。聖書の言葉の分かち合いをして、賛美をして、その方たちの教会に何度か行きました。そこで聞いた聖書のことばは今でも覚えています。

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

その時の本当の気持ちをことばで表現するのは難しいですが、その集まりにいた一瞬一瞬がすごく心地よく楽しかったことを覚えています。もっとイエス・キリストについて知りたいと思いました。残念ながら、そのクリスチャンの集まりは他のところに移ってしまい、どこへ行かれたのかわからないままです。そのため、私のクリスチャン生活も終わってしまい、私の以前のカトリックの生活に戻ってしまいました。その後、そのようなクリスチャンの集まりには参加していません。学校や母の手作りの食べ物を売る手伝いをするのに忙しくなりました。繰り返し学習する時間はなかったのですが、勉強を集中的に取り組みました。母は私たちを養うために、本当に一生懸命働いていました。母が一生懸命仕事をして頑張っている姿を見ると、私の心は挫けてしまいそうになるのです。私はその当時、神様に祈って、「なぜ、こんなことが起こるんですか」と問い続けていました。なぜ、以前のような生活を送れないのでしょうか。どうして、私たちは貧しい生活をしなければいけないのでしょうか。どうやって、今のこの状態から抜け出せるでしょうか。神様、聞いておられますか?私は高校入試に合格することが出来ました。これが、私の祈りに対する神様の答えだと思いました。その高校を卒業して、私は日本に行って働く機会を得ました。「これだ!」と私は思いました。これで、家族を助けて、もっと良い生活ができる!でも、物事はそんなに簡単に運びませんでした。採用試験を受けましたが、断られてしまいました。やっと、仕事を得たのですが、そこで、同僚にいじめを受けました。差別され、のけ者にされました。そのとき、私はイエス様に祈りました。「主よ、どうか助けてください。これは、私への試練だと思います。あなたは私を決して見捨てず、私から離れたりなさいません。」何年かが過ぎ、毎日、3種類もの仕事を忙しくこなすようになりました。私は給料の80%を家族に仕送りしました。少し生活も落ち着き、欲しいものも買えるようになりました。家族のための家を買ったり、弟や妹を学校に行かせることもできるようになりました。本当の友達と言える人達と付き合えるようになりました。2003年、私の人生を変えることになった今の主人と出会いました。私の人生は、より面白く、驚きに満ちて、しかも、とても楽しいものになりました。私の世界は家族のみ! 私は、やり遂げた!と思いました。他に何か望むものがあるでしょうか。5年前、クリスチャンである幼馴染の友達とおしゃべりをしました。彼は信仰についていろいろ話をしてくれました。毎日、お祈りするように勧めてくれました。彼は、「もし、今、死んだら、本当に天国に行けると思う?」と聞いたことを覚えています。そのときは聖霊様が私に語ってくれていたのに、よくわかりませんでした。私は友達と家族を愛していましたし、他の人に思いやりを持って接していたし、何年も神様にお祈りもしていました。でも、人生ではじめて、真剣に心から神様を求め始めたのです。神様に真実を示してくださるように祈りました。私の人生を変えるようなものであっても。2004年、友達の紹介でロサーナさんに会いました。ロサーナさんは私に御影神愛教会を紹介してくれました。最初は日本語だったこともあり、面食らうこともありましたが、礼拝に熱心に通うようになり、新しい友達もできました。しばらくすると、神様が私の心に語ってくださって、静まって神様に聞くこともできるようになりました。私には神様が必要で、イエス様は私のために死んでくださったことを示してくださいました。イエス様を信じ、ともに歩めば、すべてのことをよいものに変えてくださいます。私は20152月2日の素晴らしい朝、イエス様を主として、また、救い主として受け入れ、父、子、聖霊によって洗礼を受けました。肉体を持って生まれましたが、今、私は聖霊によって新しく生まれました。神様を受け入れたこの瞬間を、毎日をいつも感謝しています。神様からの平安と喜びが溢れてきます。そして、アガペの愛が与えられます。イエス様は私自身から私を吸い出してくださいました。私の命そのものになったのです。

最後に、試練にあるときは、いつも次の聖書のことばに戻るのです。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは、禍を与えよういうのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」エレミヤ書29:11

神であるイエス・キリストに栄光を返します。主の祝福が皆様にありますように!

 

 

救い!? ~何からの救い!?

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二

 

教会に来ると「私は救われた!」「あなたは救われました!」という言葉を耳にする事があると思います。ただ一言で「救い」と言ってもいろいろな意味があります。一般的に「救い」というと「-」な状態から「0」もしくは「+」の状態になる時に「救われた」と表現するのではないかと思います。例えば、「病気が治って健康になった」「こじれていた人間関係が修復できた」「経済的な問題が解決した」そんなことが起こる時、人は「あ~良かった。救われた!」と言うのではないかと思います。

確かにイエス・キリストを信じる時に、このような人生の諸問題が解決することがあります。しかし、教会でいう「救い」というのは人生の諸問題が解決することだけをいうのではありません。キリスト教でいう「救い」というのは私たち、人間の内にあるもっと根本的な問題、その問題の解決を与えるもの、そこから救い出されることをいうのです。

それでは、どのような問題の解決が与えられるのでしょうか。それは第一に「罪」の問題の解決です。聖書に「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ3:23)という言葉がありますが、聖書は、私たち全ての人は神の前に罪を犯している、と言っているのです。もちろん、ほとんどの方は「私は罪など犯してはいない」とおっしゃると思います。私たちが考える「罪」というと警察や裁判所のお世話になるような罪のことを考えるかも知れません。しかし、聖書が言っている「罪」というのは、それだけのことをいうのではありません。もっと奥深くにある根本的な罪のことを言っているのです。一言で言うのなら神を信じない罪、神中心ではなく、人間中心、自分中心の心、その生き方のことを言っているのです。その人間中心、自分中心の生き方が、道徳的な罪から犯罪にいたる罪、もっと言うと戦争まで引き起こしてしまうのが、この「罪」なのです。

そして、さらに聖書は「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)と言って、「罪」を持つ人間の行き着くところは「死」である、ということを語っているのです。もちろん、神は愛であり、私たちが滅んでしまうことを望んではいません。しかし、この「罪」が私たちのうちから取り除けなければ私たちを「死」から救うことはできないのです。それでは私たちはこの問題をどのように解決すれば良いのでしょうか。そうです。この問題に解決を与えて下さったのが、イエス・キリストです。約2000年前にイスラエルに生まれたイエス・キリストが十字架に架かり死んで下さったことにより、私たちの「罪」は赦されたのです。聖書には「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル9:22)とありますが、神の前に犯した罪が赦されるためには、血の犠牲、いのちの犠牲が必要でした。血の犠牲が払われるならば、罪が赦されたのでした。そして、今や、イエス・キリストが私やあなたのために十字架に架かられ、この血の犠牲、いのちの犠牲を払って下さったのです。私たちが、そのイエス・キリストの払って下さった犠牲を感謝し、信じて受け取る時、私たちの全ての「罪」は赦されて罪の力である「死」の力からも解放されて自由にされるのです。そのようなイエス・キリストが与えて下さった恵みを味わう時、私たちは、「救われた!」という事ができるのです。あなたもイエス・キリストを信じてこの「救い」をぜひご自分のものして頂きたいと願います。

イエスとの出会い

御影神愛キリスト教会 壮年部 田中 収蔵

 

私は独身の時、4回、世帯を持ってから8回、合計12回転居しました。63歳でリタイヤしたあと、今まで18年間、毎年6ヶ月海外に滞在する「渡り鳥生活」を続けています。

さて、半世紀以上前、正確には63年前の1952年、東京に本社のある専門商社に入社しました。来年、創業350年を迎える老舗ですが、経営方針は新しく派閥も学閥もなく、実力実績次第で、昇進の道が開かれていました。私は36歳で課長、41歳で部長になりました。入社以来、大阪、名古屋、東京と転勤を重ねましたが、「怖いもの知らず」で常に仕事に向かい、ときには会社のルールを逸脱することもありましたが、「結果オーライ」で実績を上げていきました。仕事以外は麻雀が唯一の趣味で、商社マンは勝負勘が必要と勝手な理屈をつけ、麻雀で深夜帰宅することもしばしばでした。3人の娘たちの相手は家内に押し付け、その上、夫婦の会話も少なく、家内は不満でいっぱいだったと思います。長女が自宅近くの高槻聖書バプテスト教会の日曜学校に行くようになったことに伴い、家内も礼拝出席するようになり、やがて、救いの決心から、洗礼を受けました。このころ家内から教会に再三にわたって誘われましたが、その都度、断っていました。1874年、部長昇進の直後、「第一次石油ショック」が起こり、当時石油危機商品を取り扱っていた私は、過去5年間の利益がふっとぶほどの損失を被りましたが、地位を失うことを恐れ、会社には正確な報告をせず、ひそかに自分の力で解決しようとしました。大きな損失をかくしたまま、以前にもまして、麻雀に夢中になっていました。

心の痛む毎日が続いていましたが、ある日曜日、家内に引っ張られて、はじめて教会にいくことになったのは、仕事の失敗に悩んでいたためでしょうか。宗教無縁の私には、牧師の説教は馬耳東風でしたが、なぜかアメリカ人牧師の挙動がおもしろく、なんとなく礼拝に出席するようになりました。イエスを信じるようになったのは、6ヶ月ほど後のことです。牧師夫妻や教会の方々の奉仕の姿を見て、少しずつ聖書の言葉が理解できるようになり、聖書の示す罪を認め、救いの決心をしました。

翌年、牧師のすすめで、麻雀をやめることが出来、会社への隠しごともすべて申告しました。懲戒免職を覚悟していましたが、処分は思っていたより軽く、昇給ストップとボーナスカットですみました。

このようにして心の刺が除かれ、晴れやかな気持ちで洗礼を受けました。その後も意欲的に仕事に向かい、会社もさらに責任の思いポジションを与えてくれました。58歳で定年を向かましたが、引き続き神戸に本社のある関連会社の代表者として5年間、経営を任されました。今から思えば、牧師のすすめで、失敗を申告していなければ、さらに大きな失敗を重ね、再起不能になったと思います。私は、所謂、会社人間で、業績をあげることが人生最大の目的と考えていましたが、イエスと出会ってからは人生の意義と目的は、神から与えられるもので、仕事はひとつの手段にすぎないことがわかりました。

その後、神戸への通勤の問題で、大阪市内に転居し、日本キリスト教団北大阪教会に転会しました。1997年、関連会社を退職した機会に、かねてから家内が計画していた「渡り鳥生活」を始めることになりました。南半球のニュージーランドでの長期滞在を9年間、体験しました。2007年、神戸市灘区に転居しましたが、縁あって御影神愛キリスト教会に転会させていただき、現在に至っております。「渡り鳥生活」は1年間休止していましたが、現在は東南アジア、主にマレーシアに毎年5、6ヶ月間、長期滞在を続けています。ニュージーランドでもマレーシアでもできる限り、現地の教会の礼拝に出席するようにしていますが、牧師や教会の方々がとても親切にしてくださいます。教会は異国での長期滞在のオアシスです。まさにクリスチャンの特権です。マレーシアの長期滞在ビザがあと2年で切れますので、それを機会に「渡り鳥生活」に終止符を打ちたいと思っています。

最後に、私の好きな聖書の言葉を紹介します。

「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたを休ませてあげよう。」

 

 

満ち足りた人生

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二

 

皆さんは、何かについて「こだわり」を持っておられるでしょうか。一言で「こだわり」と言っても、いろいろな意味があると思います。辞書で意味を調べてみますと「些細な点にまで気を配る。思い入れをする。」とあり、例文には「材料にこだわったパン」と書かれていました。これはどちらかというと良い意味で使われていると思います。また他には「些細なことにとらわれる。」という意味もあり、例文には「形式にこだわる」と書かれていました。これは、ちょっと悪い意味も含まれているのではかと思います。言ってみれば、「~は、こうでなければならない。」と何か縛られたような、こだわりが強すぎて不自由になってしまっているような、そんな印象を受けるところがあります。

いずれにしても「こだわり」というのには、良い面も悪い面も両方あると思いますが、どうでしょう。自分が「こだわっている」ものが自分の思い通り、願い通りになったら、当然嬉しいし、満足できると思います。しかし、いつでも物事が全て自分の思い通り、願い通りになるとは限りません。むしろ、それは絶対不可能なことでしょう。そうすると、どうでしょう。私たちは、いつでも、どこか、不満を感じながら生きていくことになるのでしょうか。もちろん明らかな不満はなくても、どこか物足りない感じ、何か不足しているような感じ、満足できない思いを持ちながら生きていくことになりはしないかと思うのです。

しかし、私たちは、どんな時にも満足して生きることができる道があるのです。それは、神を信頼する人生です。パウロという人が、神に祈った時、神から一つの答えをもらいました。それは、「「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。というものでした。この時、パウロに一つの強い「こだわり」というか「願い」がありました。それは、「健康になりたい。」というものでした。彼は、ずっと病気を抱えて生きていました。その病気は、「肉体のトゲ」と呼びたくなるほど辛いものでした。そして彼は、癒されるように神に祈りました。しかし、その時の神からの答えは、先ほどの言葉通りだったのです。つまり、彼の病気は癒されることはなく、むしろ、「それで良いのです。」との答えを頂いたのです。きっとパウロは、この答えを聞いた時、理解に苦しんだと思います。「なぜですか。私が健康になった方がもっと神様のために働けるのに。どうしてですか!?」と悩んだのではないかと思います。しかし、やがて彼は、神のみ心を悟っていくのですね。それは、「神の力は弱いところに完全にあらわれる。」ということでした。彼は自分の弱さを感じれば感じるほど、益々、神にお頼りしていきました。そして、神に頼れば頼るほど、神の力が働くことを体験していったのです。

愛する皆さん、もちろん、私たちは自分の思い通り、願い通りの人生を歩めれば満足かもしれません。しかし、自分の願い通りにならないところにも、実は神の深いご計画、恵みがあるということを知る人生というのも素晴らしいものではないでしょうか。むしろ、そこにこそ、人知では到底はかり知ることのできない宝が眠っているのではないかと思うのです。神と出会う時、あなたはその宝を発見することができるのです。そして、どんな状況にあっても満ち足りた人生を歩むことが出来るようになるのです。