Mikage Shinai Christ Church

瀬古牧師からのメッセージ

2018年8月”人生のともしび”

御影神愛キリスト教会 伝道師 瀬古博子

 

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(詩編119:105)

私たちは毎日の生活の中で、光がない状態で過ごすことはほとんどないと思います。全く慣れることがない程の真っ暗な状態を経験することはないでしょう。光があって当然の中に私たちは生活しているのです。

もし月や星さえもないような暗さの中にいたら私たちの生活はどうなるでしょうか?生活どころか今いる場所から一歩も歩けない状態になるのだと思います。それでは私たちの人生に光がなければどうなのでしょうか?全く周りが見えず、どこに行けばどんなことが待っているのか、どちらの方向へ向かえば何をすることになるのか、全くの暗闇の中のように予想すらできないならば私たちはどうなるでしょうか?やはり全てのことが怖くなり何もできない状態になるのだと思います。

それでは人生の全てを見通せる光が必要でしょうか?なんとなくそうであれば安心できるように思いますが、実際はどうでしょうか。全部見えていると思っていても実際には死角があったり、見えていることが錯覚であったり、見えるが故の不安になるという可能性もあるのです。全部見えるのも全く見えないのも、案外生きにくさを覚えるのではないでしょうか?

一番良いのは、私たちの最善の道を知っている人に手を引かれて足元を照らしながら歩くことなのだと思います。その最善を知って手を引いてくださるのがイエス様であり、足元を照らすともしびは神様のみ言葉である聖書なのです。全体を照らすのではないけれど、次の一歩を確かに不安なく出すことができ、そして全ての道のりを分かっているイエス様にしがみついて歩くなら、絶対に素晴らしい場所へ行くことができるのです。途中何があっても、一歩一歩が安全な所に足を運べるので、気づいたら無事に通れていた、ということになるのです。

皆さんの人生の中に確かな消えることのない光で足元が照らされていますか?全てのことを知って導いて下さる方の手を握っていますか? もしそのような状態ではないという方がいらっしゃれば、神様の言葉である聖書を読んで下さい。そして道案内をしてくださるイエス様を信じて下さい。そして安心できる人生を送っていただきたいです。一人でも多くの方がそのような生き方をすることができるようにお祈りしています。

2018年7月”あなたを造られた方”

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二

 

聖書に、このような言葉があります。

“あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に”(伝道の書12章1節)

なぜ、私たちは若い時に、自分の造り主を知る必要があるのでしょうか。それは、やがて年が寄った時に「わたしにはなんの楽しみもない」と言うことにならないためです。

ある牧師が、老人ホームに訪問に行きました。当然、そこにはたくさんのお年寄りがいらっしゃいました。その牧師は、大勢のお年寄りを見て「皆さん、長生きされてすごいですねぇ。素晴らしいですねぇ。」と声を掛けたところ、一人の方から「何が素晴らしいものか。ただ長生きしているだけで、わしには、何の楽しみもない。長生きしたって何の意味もない。」と言われたそうです。

皆さんは、どのような老後を迎えたいでしょうか。おそらく誰もが、いくつになっても生きがいをもって元気に生活したいと思われるのではないでしょうか。では、どうしたらそのように生きることができるのでしょうか。それには、最初の聖書の言葉にあるように、あなたの若い日に、あなたの造り主、すなわち、神を信じ、神と共に生きることにあるのです。

聖書によると、人間は全て神によって造られた存在であると言われています。そして、神は私たち一人一人を目的を持って造られました。ですから、私たちが神を知り、神が自分自身に持っている目的を知り、その目的に従って生きる時、私たちは自分でしか生きることの出来ない最高の人生を送ることができるようになるのです。

「まばたきの詩人」と呼ばれた水野源三さんという方がおられます。源三さんは9歳の時に赤痢を患い、重度の脳性麻痺を起して、首から下は麻痺して全く動けなくなり、口もきけなくなりました。まばたきだけでしか意思表示をすることができなくなったのです。しかし、12歳の時に、源三さんを訪れて下さった牧師から聖書を受け取り、熱心に読むようになって聖書の神様を信じるようになりました。源三さんは、自分の造り主である神様と出会ってたくさんの詩を書くようになりました。その一つの詩、「生きる」を紹介させて頂きます。

人の目から見れば、生きる意味も目的も見いだせないような水野源三さんだったと思いますが、造り主である神様と出会い、自分は自分らしく生きる、という希望をもって多くの人に励ましと良い感化を与えて人生を歩まれた方の一人となられました。神様は、誰であっても無目的に人を造られません。私たち一人一人、目的を持って造られた尊い存在です。神を知り、神を信じる時、その目的が明らかにされ最高の人生を生きることができるのです。あなたを造り、あなたを愛しておられる神を知って頂きたいと願います。

 

2019年5月”変わったねぇ”

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古 慎二

 皆さんは、人から「変わらないねぇ」とか、あるいは「変わったねぇ」とか言われたことがあるでしょうか。また、人に言ったこと、思ったことがあるでしょうか。皆さんは、もし、自分が言われるとしたらどっちの言葉の方が嬉しいでしょうか。もちろん、この言葉の背後には、いろいろな意味がありますので、簡単にはどちらの方か良い、とは言えないかと思います。

 例えば、「変わらないねぇ」と言っても、その裏には、「成長しないねぇ」といったネガティブなニュアンスが含まれている場合もあります。そういう意味で言われるとあまり喜べなかったりしますね。また、「変わらないねぇ」という言葉には、「いつまでも若々しいですね。いつも素敵ですね。」といったポジティブな意味で言われる場合もあります。こういう意味で言われると嬉しいですね。

 「変わったねぇ」という言葉の場合も同じで、ネガティブな意味を含んで言うなら「あらぁ~、あの人どうしたんでしょう?えらく老けたねぇ。大丈夫?」といった感じになるでしょうか。日本人の場合でしたら、露骨にそんな表現をする人はいないと思いますが、やはり残念な感じですね。反対にポジティブな意味で「変わったねぇ」という場合、かなり良い意味で使われることが多いのではないかと思います。そこには、「成長したね」「立派になったね」「良い人になったね」という意味が含まれていたりします。

 こんな風に考えると良い意味で使われる「変わったねぇ」という言葉が一番言われて嬉しい言葉のように感じます。でも、また反対に私たちが「良い意味で変わる」ということが最も難しいことではないか、とも思わされます。私たちの多くは、自分を変えようと努力するのですが、自分を変えることほど難しいことはなく、あきらめてしまうことがほとんどではないでしょうか。

 でも、そんな私たちを変えて下さる方がおられます。その方こそ、イエス・キリストです。聖書に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」という言葉があります。どんな人であってもイエス・キリストを信じるなら、その人は新しい人に変えられるのです。

 実際、多くの人が、イエス様を信じて変えられています。短気で怒りっぽかった人が、周りの人から「あの人、最近変わったねぇ。なんか穏やかになったわぁ」と言われる人になったり、文句ばっかり言っていた人が、感謝を口にする人に変わったりしています。これは、キリスト教という宗教を一生懸命行ったからではなく、その人が、イエス・キリストを信じて、心の中にイエス様をお迎えすることによって与えられた変化なのです。

 もし、あなたも「変わりたい。自分を変えたい。新しい人となって人生、生きていきたい。」と願われるなら、ぜひ、イエス・キリストを信じて心に迎えて頂きたいと願います。あなたの上に神様の祝福がありますようお祈りしています。

2019年4月”奇跡の神”

御影神愛キリスト教会 伝道師  杉本満子

 

今年も間もなくイースターがやってきます。「イースターって何?」と言われる人も居るかも知れませんね。イースターは日本語で復活祭と言って、イエス・キリスト様が死んで、三日目に甦ったことを記念して祝うキリスト教のお祝いの日です。「え!死人が生き返るの、そんなの信じられない!」「聖書の中には、いっぱい奇跡が書かれているでしょう、だから信じられないのよ」と言われる人もおられると思います。けれどもイエス・キリスト様の復活は、現実であり事実なのです。イエス・キリスト様は、今からおよそ2000年余り昔、私たちと同様にこの地上に生まれ生活した実在の人物なのです。

 そこで、イエス・キリスト様の歴史を少し振り返ってみましょう。不思議なことが起こりました。現在のイスラエルの国の北の方にあるナザレと言う村に住む、心の優しい処女に突然天使が現れたのです。そして、「あなたは聖霊によって神の子を産むでしょう」と言われたのです。マリヤはどんなに驚き恐れたことでしょう。しかし、マリヤは神様を信頼して「わたしは、主のはしためですお言葉どおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言ったのです。処女から生まれるこの事自体が奇跡ではないですか。そして、クリスマスが始まったのです。

 30歳になったイエス・キリスト様は、各地を歩いて、神の国について語り、また、多くの病める人々を癒し、死人を甦らせるという奇跡を行われたのです。しかし、当時の支配階級の人々に妬まれ、ついには犯罪者にされ十字架につけられて殺されてしまったのです。イエス様の遺体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。しかし、三日後イエス・キリスト様は、生き返り墓を破って出てこられたのです。埋葬されて三日も経っているのに生き返って弟子達に会って下さったのです。奇跡です!何故奇跡が起きたのでしょう。それはイエス・キリスト様は神様だからです。神様には何でも出来ない事はないのです。出来ない事があったら、それは本当の神様ではないのです。

さて、イエス・キリスト様は、復活の後40日の間多くの人に会って、確かに甦ったことを示された後、弟子たちの見ている前で、天の父なる神様の許に帰って行かれたのです。弟子達は、イエス・キリスト様の足が地上から離れて天に昇っていく姿をじっと見つめていました。この天に昇って行かれたイエス・キリスト様は、今も神様の右に座して私達を見守り続けて下さる活ける神様なのです。

 イエス・キリスト様は今も生きている神様?そんな・・・でもそれは事実なのです。聖書の中で、パウロという立派な先生が言いました。Ⅰコリント15:17「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、」:19「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」と。クリスチャンが単にそうあってほしいと願っているだけだとしたら、クリスチャンほど愚かな者、哀れな存在はない。と言うのです。:20「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と続けています。そして、この方を信じる人はキリストにあって永遠の命をいただくことが出来るのです。

 そうです、キリスト様の十字架の死と復活は、単なる物語ではありません。歴史的事実なのです。そして、今もキリスト様を信じ従う人々の祈りを聞き、見守り続けて下さるのです。素晴らしいですね。 この様に素晴らしいイエス・キリスト様の死からの復活を喜ばずにおれるでしょうか。この奇跡の神様をあなたも信じませんか。そして共にこのイースターの喜びの日を祝おうではありませんか!

2019年3月”神様が味方”

御影神愛キリスト教会 名誉牧師 杉本俊輔

 人生の歩みは、誰でも楽しく平安でありたいですね。しかし、時には思っても見ない出来事に直面して立ちすくんでしまう事があります。健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族関係のこと等々。無理解、差別、不条理な仕打ちに会って苛立ちを覚えることがあります。しかし神様に相談(お祈り)するならば必ず良き解決の道が開けます。ペテロと言うキリスト様のお弟子さんが、困難に直面している信仰の若い方々に、「思い煩いや心配事をすべて、神様にお任せしなさい。神様のほうで万事を良きようにして下さるからです」愛の神様は、完全で、不変です。と教えています。幸せな生活を送るために神様といつも一緒に生活したいですね。
 

 さて、聖書の中に、真の神様を信じる一人の人が描かれています。彼は、不条理な仕打ちに会い、憎まれ、半殺しにされ、最後は奴隷に売られてしまったのです。彼は、男兄弟12人の中で11番目の子でした。父親に溺愛されていたようです。その上容姿は良く頭脳明晰で非の打ち所がなかったのです。だから兄弟からは嫉妬されていたのですね。彼は、日ごろから兄弟に憎まれていました。ある日父からの指示で野で羊を飼っている兄たちを訪ねました。近づいて来る弟を見つけた兄達は、彼を殺そうと言いだしましたが長兄が彼を殺す事には反対したため、命だけは助かりましたが、丁度そこを通りかかったイシマエル人に銀20枚で奴隷として売られてしまったのです。彼はエジプトに連れていかれ、そこでエジプトの王パロの侍従長ポテパルという者に買い取られました。何不自由のない生活を送っていた彼は、一夜にして兄達の憎しみで、父から切り裂かれ奴隷にされてしまったのです。

 

なんと悲しい事でしょう。しかし、彼は一言も不平を言わず、どんな状況の中でも神様が共に居て守ってくれると信じたのです。(創世記39章)さて、彼を奴隷として買い取ったエジプト王の侍従長ポテパルの家は、不思議なことにこの奴隷の若者が来てから祝福され万事が上手くいくようになったのです。そこで、侍従長は喜んで彼に家の全財産の管理を任せたのです。ところが、侍従長の妻は淫らな女で、有能で美男子の若い奴隷に、毎日執拗に言い寄るのでした。(39:10)しかし、彼は断り続けて誘惑に負けませんでした。その結果、侍従長の妻の虚言によって、何の罪もない彼は牢屋に入れられてしまったのです。何と理不尽なことをされたのでしょう。しかし、彼は、獄中にあっても不平不満を言わず、神様の助けの時を待ったのです。

 

歴史は流れ、ある時、エジプトの王パロが夢を見ました。(41章)夢は、ナイル川に美しい肥え太った七頭の雌牛が上がってきて葦を食べていました。その後、醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がってきて、美しい肥えた七頭の牛を食いつくしてしまったのです。パロ王は、ここで目を覚ましました。

 

再びパロ王は夢をみました。一本の茎に太った良い七つの穂が出てきました。その後でまた、痩せて、東風に焼けた七つの穂が出てきて、太った七つの穂を飲みつくしました。ここで、パロ王は目を覚ましました。パロ王は心が騒ぎ、夢の解き明かしを求めましたが、国中の知者も占い師も解くことが出来ませんでした。この時、かつて一緒に牢屋に入っていた役人が、無実の罪で捕われている奴隷の男を思い出し、彼ならば王の夢を解き明かせるだろうとパロ王に奏上したのです。彼は、王の前に立たされました。

 

王は彼に言った「お前は夢を解き明かせるそうだな」彼は、「いいえわたしではありません。生ける真の神様がパロ王にお告げになるのです。」と、申し上げました。王様「夢の意味は一つです。七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年です。更に、痩せた七頭の雌牛も七年です。東風に焼けた七つの穂も七年の飢饉です。エジプトに七年の大豊作があり、その後七年の大飢饉が起こるでしょう。だから飢饉に備えて下さい。」パロ王は、これを聞いて感動して、家来たちに言ったのです。「われわれは神の霊をもつこのような人を、他に見出し得ようか」そして、彼に言った、「神がこれをみなあなたに示された。あなたのように聡く賢い者はない。」(41:39)そして、彼を、王に次ぐ内閣総理大臣にしたのです。奴隷で囚人だった彼は、この時、30歳になっていました。(41:46) 

 

何という事でしょうか?事実、彼の預言のとおり世界中に大飢饉が起こりました。噂は世界を駆け巡り、エジプトには食糧が豊かにあると伝わると人々は大挙して買い出しに訪れました。ある時、北の国から十人の男たちが穀物の買い出しに来ました。この十人の男たちは、エジプトの総理大臣の前に平伏して穀物を乞うたのでした。彼等は、目の前に居る大臣が、十三年前に、自分達が半殺しにして奴隷として売り飛ばした実の弟だとは誰も気付いていませんでした。

 

しかし、彼はすぐに気付いていたのです。ついに彼は、自分を制しきれなくなり、告白をしました。「お兄さん達、私はあなた方の弟ヨセフです。あなた方がエジプトに奴隷として売った者です。しかし私をここに売った事を嘆くことも、悔やむこともいりません。神様が私達一族を救うために、先にわたしをエジプトに遣わしたのです。」45:4 ヨセフは兄弟の憎しみ・暴虐に対して愛と許しをもって報いたのです。「神様が自分の味方になって守ってくれていたからです。」愛と許しは全てを幸せにします。
 この記録は聖書の創世記37章~50章にあります。