Mikage Shinai Christ Church

瀬古牧師からのメッセージ

9月のメッセージ

 

「自由」    御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

あなたは「自由になりたいなぁ」と思ったことはないでしょうか。私の家には、猫が

一匹いまして、猫を見ていると時々、「なんだか自由でいいなぁ~」と思うことがあります。寝たい時に寝て、起きたい時に起きてと。実に自由というか、気ままな生活ぶりです。

しかし、本当の自由というのは、自分のやりたいように生きることをいうのでしょうか。

聖書の中に自由気ままに生きた代表的な人物がいます。その人は“放蕩息子”と呼ばれている人です。彼は親が生きている頃から財産を分けてもらって、遠い街へ出掛けて行きました。そして自分勝手に毎日遊んで暮らしていたわけです。しかし、やがて財産も底をついてしまい、とうとう食うや食わずの生活をしなければならなくなってしまったのでした。その後の彼の話は、まだ続くのですが、いずれにしても、もし、私達も彼のように「自分勝手に生きることが自由だ。」と言って生きるなら、やがては彼と同じ生活になってしまうことを聖書は教えていると思います。

それでは、本当の自由とは、どのようなものでしょうか。イエス・キリストは「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」と言われました。この「真理」とはイエス・キリストご自身のことを言われているのです。すなわち、キリストご自身が、私たちに本当の自由を与えて下さるというのです。

イエス・キリストが与えて下さる自由とは、私たちが何にも束縛されることのない自由なのです。キリストは「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」と言われました。もし、私達が自分の意思でコントロールできなくなっているものがあるとしたら、私達は、それに束縛されている、奴隷になっているということです。

酒やタバコの問題というのは、ひとつの分かりやすい例ですが、しかしながら、私達が、また最も厄介なコントロールしにくい問題が誰でもあるのではないでしょうか。それは、この心の問題です。ちょっとした拍子に怒りやイライラがでてくる。なんとも言えない不安に襲われる。苦々しい思いに心が捕われる。といったことがあるのではないでしょうか。私達は、知らず知らずの間にこのようなコントロールできないような感情に束縛されていることがあるものです。

如何でしょうか。皆さんも思い当たる節があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、私達自身の力では、どうにもならないこのような問題から私達を解放し、本当の自由を私達の心に与えることができる方なのです。あなたが、キリストを信じて自分の人生を委ねる時、イエス・キリストはあなたの心に本当の自由と解放を与えてくださるのです。どうか、このキリストとともに歩む自由な人生の一歩を踏み出してみて下さい。

 

8月のメッセージ

 

人生は出会いで決まる   御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

私たちは、人生の中でいろいろな人と出会っていきます。誕生した時からの両親との出会い、友達との出会い、幼稚園や学校での先生との出会い、同僚、上司、部下との出会い、伴侶との出会い、生まれてくる子どもとの出会い。本当に人生には様々な出会いがあります。そして私たちは、出会っていく人達からいろんな影響を受けながら成長し、また変えられていきます。もちろん、その影響というのも、良い影響もあれば悪い影響もあります。ですから時には「あ~、何であんな人に出会ってしまったんだろうか?あんな人と出会わなければ自分の人生狂わなかったのに。あんな人に出会わなければ良かった…」と思いたくなるような出会いもあるし、反対に「私はあの人に出会えて本当に良かった!あの人に出会って私の人生は本当に変えられた!」と思えるような出会いもあります。出来れば私たちは、いつもそのように思える人との出会いをしていきたいものです。また、自分自身も人から「あなたと出会えて良かった。」と言ってもらえるような生き方、人に良い影響を与えることの出来る人になりたいものです。

今、教会だよりを読んでくださっているあなたに、出会って頂きたい方がいます。それは、イエス・キリストです。聖書に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」とありますが、イエス・キリストはあなたを変え、あなたの人生にいのちと祝福を与えてくださる方です。
どうか、聖書を通し、また教会に足を運んでいただき、このイエス・キリストと出会って頂きたいのです。イエス・キリストとの出会いは、あなたの人生を、全く新しいものとし、あなたの人生にいのちと希望を与えてくださいます。あなたがイエス・キリストに会えることを切に願い、祝福をお祈りいたします。

7月のメッセージ

 

「思いやり」  御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

 

先日、近所の温泉に行きましたら、脱衣所のところにこんな言葉が貼ってありました。

「少々、動作が遅くとも、年寄り笑うな、皆 行く道。少々、泣いて騒いでも、子供叱るな、皆 来た道」

なるほど、そうだよなぁと思い、思わず写メを撮りました。

また、この言葉に続いて、小さくこんなことも書かれていました。「みんなで守り、みんなで育む。そんな思いやりのある街に」と。誰が考えられた言葉かは分かりませんが、自分たちの街が、「小さな子供からお年寄りに至るまで、みんなが安心して住めるそんな街にしたい」という思いから先ほどの言葉が掲げてあるのだと思います。私たちも、自分たちの住む街、職場や学校、家庭が、思いやりに満ちたところとなるように願います。

それでは、実際に思いやりというのは、どこから生まれてくるでしょうか。それは、決して自分本位、自己中心的な思いからは生まれてこないでしょう。聖書に「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ2:4)という言葉があるのですが、私たちは、自分のことばかりではなく、他の人の立場になって考える時、思いやりというのが生まれてくるのだと思います。

先の言葉にあるようにお年寄りを見た時に「なんだ!?邪魔だな。」と思うのではなく、「やがては自分だって年をとるのだから、人生の先輩を大切にしよう。」と相手の立場になって考える。また、泣いて騒いでいる子供を見て「なんだ、うるさいな!」と思うのではなく、「自分だって、子供の時があって、たくさん迷惑を掛けて来たじゃないか。」と考える。そんなことから、思いやりの心が生まれて来るものだと思います。

ただ、なかなか相手の立場に立って考えるというのは、口で言うほど簡単ではないように思います。自分が実際にその人の立場に立たされた時や同じ経験をした時に、初めて「あ~、そうだったのか、あの人はこんな思いをしていたのか。」ということがあります。よく言われることですが、自分が親になった時、初めて親の気持ちが分かったと言われるような事ですね。私たちは、経験を通して相手の気持ちを本当に理解して、思いやりが生まれて来るものです。

聖書のヘブル人への手紙4章15節に

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」

という言葉があります。この「大祭司」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは私たちと同じように、この世においていろいろな試練や苦しみを経験されました。彼は、孤独を味わい、空腹や貧しさも知っていました。いろいろな人生の痛みを経験されたのです。ですから、イエス・キリストは、私たちが人生の中で試練や苦しみに会うとき、私たちのことを本当に思いやってくださる方なのです。ですから、試練や苦しみの時に、どうかこのイエス・キリストのことを思い出してください。キリストは、あなたのことを心から心配し、思いやりを持って励ましてくださる方だからです。

2014年御影神愛キリスト教会だより 6月号

「罪人を招くために来られたキリスト」

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

4月の末にアメリカのオバマ大統領が東京に来日されました。この度の来日の目的はなんだったのでしょうか。お寿司を食べるためではなく、それは、政治的な交渉をするためだったわけです。一国の大統領が来日するのには、それ相応の目的があってやって来られるわけです。 2000年前、イエス・キリストは神の子としてこの世に来られました。イエス・キリストは何の目的でこの世に来られたのでしょうか。キリストは、このように言われました。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 イエス・キリストがこの世に来られた目的の一つは、罪人を招くためである。というのです。それでは、ここで言う義人とか罪人というのはどんな人のことなのでしょうか。義人というのは、罪を犯したことは一度もないという人のことではありません。どんなに品行方正な人でも罪を一度も犯したことはない、という人はいないと思います。誰もが一度は、人を憎んだり、小さな嘘をついたりしたことはあるでしょう。ここで言う義人というのは、自分の正直な姿を見ようとせず、自分は間違っていない、自分は正しい、と言い張るような人のことです。それでは、罪人というのは、罪しか犯さない人のことでしょうか。どんなに悪い人であっても、人間どこかに良い部分があるものです。良いことしか、しないという人もいないように、罪しか犯さないという人もいません。 ここで言う罪人とは、どんな人なのでしょうか。それは自分を正直に見つめ、自分の弱さ、罪深さを認めることのできる人のことです。そして、イエス・キリストは、そういう人を愛され、受け入れられ、友となってくださる方なのです。 私たち人間は、誰も完璧な人はいないと思います。誰もが弱さを持ち、失敗をし、時には自分や人を傷つけてしまうものだと思います。しかし、イエス・キリストは、そんな私たちのことを愛して、受け入れてくださり、友となってくださるのです。そして、私たちを本当の悔い改めに導き、私たちの心を変えてくださる方なのです。自分の弱さや罪深さに気づいた時、一人で悩まないで、あなたを包んでくださるイエス・キリストのところに来てください。あなたもイエス・キリストの愛を体験することができます。

「神の恵みにふれて」

*今月のマイストーリー* 御影神愛キリスト教会員 米田佐和   私は、クリスチャンホーム出身ではありませんが、幼い頃から母に連れられて教会に通っていました。 神様を信じる決心をし、中学生の頃に洗礼を受けました。けれども私は、自分がクリスチャンであることを友人に告白することもなく、聖書を開くのは日曜だけ、いや日曜ですらも怪しい、というようなクリスチャンでした。神様の愛について、また自分自身の罪について、深く理解せぬまま中学、高校時代を過ごしていました。   ところが、神様を忘れたような毎日を送っていた私を、神様は決して忘れておられませんでした。 大学1回生の夏ごろ、教会の友人に”KGK”というものに誘われました。聞けばそこは大学生のクリスチャンがたくさん集まるところだということで、参加しました。ただ、このKGKという名前は、ローマ字で「キリスト者学生会」と書いた時の頭文字をとったもので、「ダサい」と思わずにはいられませんでした。笑 しかし、そのダサいと思っていたKGKで、私は神様から本当にたくさんの恵みをいただきました。 KGKの働きは決して派手なものではなく、学生たちが聖書研究会と祈り会の2つを、それぞれが通う大学で行うという、とても地味なものです。私は、このKGKという神様が与えてくれた機会を通して、毎日聖書を開き神の前に静まって祈ることの大切さを知りました。また、共に恵みを分かち合い、お互いのため祈り合える仲間がたくさん与えられました。また仲間たちと、聖書から進路、恋愛、結婚、ときには日本国憲法について学んだりもしました。 様々なことを聖書から学んでいますが、本当に大切なことはわずかなのだと、いつも思わされます。 それは、聖書の御言葉は、つまり神様の言葉は、どこまでも奥深く、そこには私たちへの愛が溢れているということです。私の心には、人にはとても見せることの出来ない汚い思いや考えがたくさんあります。しかし、神様はこんな私の良いところも悪いところも、まるごと受け入れて愛してくれているのです。神様が、その愛するたったひとりの子、イエス様を十字架にかけてまで救いたかった命は、そんな私の命なのだということを、聖書から日々語られています。 残された大学生活を含めたこれからのクリスチャン人生、自分のささげられる精一杯をもって、この神様の測り知れない愛に応答していく生き方が出来るように、祈っていきたいです。1つの賛美を紹介します。

~真昼のように~

命をかけて 愛をしめされて

イエス様に出会い すべてが変わった

わたしはあなたに 何をもって

感謝をあらわせばいいのだろう

 

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2013年11月「教会はどんな人が行くところ?」

「教会はどんな人が行くところ?」

御影神愛キリスト教会 牧師 瀬古慎二

ある人から「私はクリスチャンじゃないんですけど教会に来ていいんでしょうか。」と聞かれたことがあります。他にも同じように思っていらっしゃる方も多いそうです。また、「教会は私のような汚れた人間が行けるところじゃないですよね。」とか、「もうちょっと良い人間になったら教会に来ますよ。」とか言われる方々もいらっしゃいます。

CJH22 実際、教会とは、どういう人が来るところなのでしょうか。
聖書のマルコ2章17節でイエス様は、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とおっしゃいました。イエス様がこの世に来られた時、積極的に関わられた人たちがいます。それは、宗教的指導者や政治家たちといった世の権力者たちではありませんでした。むしろ、その当時、罪人と呼ばれた取税人や遊女たち、また病人や名もない普通の人達とイエス様は積極的に関わりを持ったのでした。
イエス様の12弟子の1人でマタイという人がいますが、この人も取税人でした。この当時、イスラエルの国は、ローマの属国でありました。ですから取税人は、ローマのために同胞ユダヤ人たちから税金を徴収する仕事をしていました。そのため、同胞の民からは、ローマの犬として嫌われていました。また、ローマ人たちからも、ただの下っ端の働き手として馬鹿にされていました。ですから、取税人であったマタイもとても惨めで寂しい毎日を送っていたことと思います。そんな時、彼のところにイエス様が来てくださったのです。そして「私に従って来なさい。私の弟子となりなさい。私と一緒に生きよう。」と言ってくださったのです。どんなにマタイは嬉しかったでしょうか。時の人であったイエス様が、わざわざ自分のところに来てくれて、「私の弟子にしてあげよう。」と言ってくれたのですから。そして、彼はイエス様に従って、その後、素晴らしい働きをする人になっていくのです。
このようにイエス様が招いていらっしゃる人たちというのは、義人と呼ばれる正しい人たちではなく、むしろ人生に悩み、あるいは自分の罪深さや弱さに気づいている人たちなのです。教会もまた正しい人たちだけが集まるところではなく、自分自身の罪や弱さに気づいた人たちも神の恵みを求めて集まるところです。ですから、教会はどんな人が来ても良いところなのです。どなたでも遠慮なく教会にお越し下さい。あなたを歓迎いたします。